第10話 「エレ」という名
深夜、執務室の灯りを落としたエレは、自室のベッドに腰掛け、腰の長剣を膝の上に横たえていた。
鞘の表面には、長年の戦いによって刻まれた細かい傷が無数に存在している。エレはそれを細い指先でなぞりながら、ふと、自らが名乗る「エレ」という響きに思いを馳せた。
(……慣れてしまったな)
「エレ将軍」と叫ぶバルドの泥臭い声。
「エレ様」と几帳面に出されるレオンの静かな声。
そして、「エレ」と優しく響かせるサフィールの琥珀色の眼差し。
かつては「ルシフィード」以外の名で呼ばれるたび、皮膚を剥がされるような違和感と苦痛を覚えていたというのに。いつの間にかこの「エレ」という偽名が、己の身体や呼吸と同じくらい当然のように馴染んでしまっている。
(だが……忘れたわけではない。この名に込めた、私の誓いを)
エレはそっと両手で顔を覆い、遠い記憶の底へと意識を沈めた。
爪が皮膚に食い込むほど拳を握り締めると、失われた太陽の光と共に、二人の兄の眩しい姿が鮮明に蘇る。
学問に秀で、誰よりも優しく賢い長兄・エリアス。
圧倒的な剣技を持ちながら、誰よりも強く穏やかだった次兄・レヴィアス。
幼いルシフィードにとって、二人の兄は誇りであり、太陽そのものであった。
『いいかい、ルー。言葉というのは不思議なものなんだ』
幼い頃、王宮の図書室で分厚い古文書を広げながら、エリアス兄上が優しく微笑んで教えてくれた古代語の授業。横ではレヴィアス兄上が木剣の手入れをしながら、穏やかに耳を傾けていた。
『例えば、古代語の『エレ(Ere)』という言葉。これ単体だと「影」や「無」……何も存在しない寂しい意味になってしまう』
エリアス兄上が紙にさらさらと文字を書く。
『だけどね、そこに我が国の名である『ラディオン(Radion)』を繋げて『エレ・ラディオン』と読むと、全く違う意味になるんだよ』
『違う意味……?』
首を傾げる幼いルシフィードに、レヴィアス兄上が立ち上がり、大きな手でポンと頭を撫でてくれた。
『ああ。「夜明け前の最も深い闇を破り、再び芽吹く絶対の太陽」……つまり、どんな絶望をも打ち払う“最高の希望”という意味に変わるんだ。覚えておくといい』
『そうだとも。どれほど暗い夜が来ようと、どれほど険しい道が続こうと、諦めずに足を前に出し続ける者だけに宿る光のことさ。ルー、お前がもし将来、道に迷うようなことがあったら、この言葉を思い出しなさい』
『はい! お兄様!』
あの日の二人の兄の笑顔、太陽の光を受け輝いていたラディオンの庭園の風景。
二人の兄が示してくれた、言葉の魔法のような美しさ。
あの日、帝国の鉄脚が王国を踏みにじるまで、その温かな教えがこんなにも悲しい形で役立つことになるとは思いもしなかった。
ラディオンが滅びて最初の冬、帝国の国境付近は凄惨な大雪に見舞われていた。
凍てつく風が吹き荒れる廃村の影で、ルシフィードは、破れた布切れを全身に巻きつけ、震えながら蹲っていた。
足の指は寒さで感覚を失い、胃袋は二日間何も受け入れていない。
洗うことのないプラチナブロンドの前髪はボサボサに伸び放題となり、顔の上半部を覆い隠していた。その隙間から覗くのは、かつて国の誇りであった「緋色の瞳」。人に見られれば即座に首を刎ねられる死の標的だ。
『おい、死んでんのか、このガキ』
通りかかった粗暴な男たちが、雪の上に倒れていた少女の脇腹を容赦なく蹴り飛ばした。
痛みに声も出ず、雪の中に顔を突っ伏す。口の中に冷たい雪と泥の味が広がった。
『チッ、ただの薄汚い浮浪児か。金目のものも持ってねぇな』
男たちは唾を吐き捨て、去っていった。
雪がしんしんと降り積もり、少女の体温を奪っていく。
視界が白く霞み、意識が遠のいていく中、脳裏に浮かんだのは温かな王宮の暖炉と、血の海に倒れた家族の姿だった。
(……このまま、眠ってしまえば楽になれるのかな)
死の誘惑が、甘く全身を痺れさせていく。
だがその時、胸の奥底から激しい火花が散った。
『ルー、必ず生き延びなさい……!』
義姉メディトリナの叫び。そして、次兄の優しい声。
『“エレ”……絶対に途絶えぬ希望。諦めずに足を前に出し続ける者だけに宿る光のことさ』
「……っ!」
少女は雪を噛み締め、凍りついた両手を泥の中に突き立てた。
死んでたまるか。こんな場所で、名もなきゴミのように凍え死んでたまるか。
家族を殺した帝国が、今この瞬間も温かな城で酒を酌み交わしているのだ。義姉が冷たい檻の中で私を信じて耐えているのだ。
少女は前髪の隙間から、血走った「緋色の瞳」をカッと見開いた。
『私は……死なない……!』
声を押し殺して叫び、膝を折りながらも雪を蹴って立ち上がった。
ルシフィードという姫は、あの炎の中で死んだ。
彼女は己に「エレ」と名付けた。
それは過去を捨てるための名ではなく、「果てなき泥沼を歩み抜き、必ずや復讐と救出を果たす」という、亡き兄たちとの血の誓いそのものだった。極寒の雪原で立ち上がったのは、復讐のために泥を啜る獣――「エレ」だ。
「……あの雪の冷たさに比べれば、今の痛みなどどうということはない」
淡い息を吐き出しながら、エレは心に刻みつけるように低く言葉を零した。
膝の上の長剣を滑らかに引き抜き、刀身に映る己の「蒼の瞳」を見つめる。
(あの男……サフィールは私を『友』と言い、部下たちも私を慕ってくれる。……だがその温もりに縋りたくなる自分を、私は決して許さない。兄上たちが教えてくれた希望をこの手で掴み取るまで、私はこの影の中から帝国を破滅させてみせる)
エレは冷徹な眼光を取り戻し、剣を疾風のごとく鞘へと収めた。
蒼の呪薬が、再び両眼の奥でキリキリと冷たい痛みを主張し始める。
エレはその痛みを、己の覚悟を繋ぎ止める鎖のように噛み締めながら、ゆっくりと瞼を閉じた。




