第8話 束の間の平穏〜将軍の意外な日常〜
ヴァルカ平原の激戦から数日。北方拠点の第三軍営舎は、久々の束の間の平穏に包まれていた。
午後、将軍執務室。
エレは積み上がった軍政書類に目を通しながら、静かに微かな溜息を吐いた。長年の男装生活と過酷な行軍、そして「蒼の呪薬」による肉体への負荷は、着実に彼女の体力を削り取っている。
(……目が霞む。だが、休んでいる暇などない……)
胸元の晒しを固く締め直し、ペンを走らせるエレ。
「……トントン」
静寂に包まれた執務室の扉に、遠慮がちなノックの音が二度響いた。
「入れ」
ペンを走らせる手を止めず、エレは低く短く応じた。
ギィ……と重い木製扉が静かに開き、入ってきたのは副官のレオンだった。手には、しっかりと束ねられた羊皮紙の書類が抱えられている。
「将軍。ヴァルカ戦の補給物資と、負傷者の経過報告書です」
「そこに置いてくれ」
書類から目を離さぬまま、エレが短く指示を出す。
レオンは指示された通り、デスクの端へと几帳面に報告書を重ねて置いた。だが、そのまま退室する気配はなく、眼鏡の奥の鋭い目を細め、エレの顔色をじっと見つめた。
「……何か問題でも?」
エレがわずかに眉をひそめて視線を上げると、レオンは深々と溜息を吐いた。
「いいえ。ただ、将軍がまた朝から水一杯しか口にされていないことが問題かと」
「……余計なお世話だ、レオン」
冷ややかにあしらうエレだったが、レオンは動じることなく「はぁ」と溜息を吐いた。レオンは、エレが第三軍団長に昇格する前からの側近であり、その過剰なまでの禁欲主義と冷徹な自己管理に誰よりも頭を痛めてきた苦労人だった。
「私がどれほど言ってもお聞きにならないのは分かっています。ですから――本日はあの方にお任せすることにしました」
レオンが半ば呆れ気味に振り返ると、ドアの隙間からガタイの大きな副団長バルドが、デカい図体を縮こまらせながらドタバタと姿を現した。その手には、大きな木製のトレイが重そうに握られている。
「よ、よう将軍! レオンから『将軍がまた飯を食ってねえ』って聞いたもんでな!」
バルドはデカい体を丸めながら、トレイをドンッとエレの執務机の上に置いた。
トレイの上には、湯気を立てる大きな蒸しパンと、肉がゴロゴロ入ったスープ、そして木の実がたっぷりと乗った甘そうな小鉢。
「……これは何の真似だ、バルド」
「差し入れです! いや……俺たち、ずっと見てたんですよ。将軍、いつも黒パンと干し肉をかじって水で流し込むだけで、ろくにメシを食ってねえでしょう? そんな細い体で、あの激務と殺気……いつか倒れちまうんじゃねえかって、兵たちの間で噂になってまして」
「余計なお世話だ。私はこれで十分――」
「駄目です!」
普段はエレに頭が上がらないバルドが、デカい声を張り上げて頑固に言い張った。
「将軍が倒れたら、この第三軍団は誰が引っ張るんですか! その甘いやつは市井で一番人気のお菓子でしてね……『甘いもんは頭の疲れに効く』って、うちのババアも言ってました!」
強引に押し付けられた小鉢。エレが呆れてレオンの方を向くと、参謀であるレオンは澄ました顔で眼鏡の位置を直した。
「……バルド副団長が『将軍に甘いものを食わせる!』と聞かなくてですね。軍律違反ではありますが、将軍の体調管理も副官の義務ですので、今回は黙認いたしました。……ちなみに『あの木の実の菓子なら、将軍も一口は付けられるかもしれない』と助言したのは私ですが」
「おいレオン! 余計なネタばらしすんじゃねえよ!」
不器用だがどこか息の合った二人のやり取り。
エレは一瞬言葉を詰まらせ、木の実が乗ったお菓子を見つめた。
(昔……王宮で義姉様と一緒に食べたお菓子に、少し似ている……)
かつてラディオンの陽光の下、天真爛漫に笑っていた自分。
遠い昔の記憶が胸をかすめ、エレはふっと目元を和らげた。
「……まったく。次はないぞ、二人とも」
そう冷ややかに呟きつつも、エレは小さな匙を取り、一口口に運んだ。
口いっぱいに広がる優しい甘さ。
「……悪くない」
ぽつりと呟いたその言葉に、バルドの顔が一気に輝いた。
「だろ!? 俺の言った通りだ! よっしゃ、将軍が食ったぞ!」
「声が大きい、バルド。」
「将軍、あまり無理をなさらないでください。あなたに倒れられたら、私とバルド副団長ではこの荒くれ者どもを抑えきれませんから」
レオンもホッとしたように胸を撫でおろし、微かに笑みを浮かべた。
慌てて冷徹な将軍の仮面を被り直したエレだったが、ほんのり赤くなった耳を二人に見逃されることはなかった。賑やかな笑い声が執務室に響き渡る。冷酷な青年将軍と、それを支える参謀レオン、そして熱血な副団長バルド。猛者揃いの第三軍の中に、「気難しいが実は可愛いところのある我が将軍」という、新たなる忠誠心が芽生えた瞬間だった。
部下たちが騒がしく去った後、静かになった執務室で、エレは最後の一口を噛み締めた。
(くだらない……こんな温もりに慣れてどうする)
自戒するように呟くものの、胸の奥の冷え切った隙間が、ほんの少しだけ温かくなっているのを感じていた。
冷たい呪薬で瞳を染め、復讐の炎だけを糧に生きてきたエレの胸の奥に、ささやかで温かな灯火がともるような――そんな穏やかな昼下がりだった。




