第7話 滅亡の日と約束(ガレノス回・後編)
ルシフィードとガレノスは、帝国の追撃を逃れるため、鬱蒼とした暗い森の中を死に物狂いで走り続けていた。
「ハァ……ハァ……っ! 姫様、しっかりおつかまりくだされ……!」
黒煙の立ち込める城郭を抜け、夜の森へと逃れ出たものの、背後からは追撃の蹄音と帝国の兵たちの怒号が迫っていた。
メディトリナの命がけの導きによって城を脱出したガレノスとルシフィード。だが、まだ幼い少女の足では、執拗に追ってくる帝国の精鋭から逃げ切ることなど不可能に近かった。
雨のように降り注ぐ矢の音。暗闇の中、ガレノスは痩せた老躯にエレを背負い、足をもつれさせながら泥道を突き進む。幼いエレの体は恐怖で震え、背中につかまる小さな手には爪が食い込むほど力が入っていた。
「 ガレノス、義姉様は……義姉様は無事なの?」
息を荒らげ、涙で顔をくしゃくしゃにしながら尋ねるルシフィード。
メディトリナは「必ず生き抜いて」と言って二人を逃がしたが、あの血煙の中で残された彼女の無事を保証できる術など、どこにもなかった。
「……メディトリナ様は強いお方でございます! きっとご無事でいらっしゃいます! だからこそ、ルシフィード様が捕まるわけにはいかんのです!」
自分に言い聞かせるように叫ぶガレノス。
だが、夜の森を切り裂くように、忌々しい犬の遠吠えと鎧の擦れる音が追ってきた。
「いたぞ! ラディオンの生き残りだ!」
「逃がすな! 喉を掻き斬って首を持ち帰れ!」
帝国の精鋭追撃隊だ。松明の赤々とした光が、木々の隙間から刻一刻と近づいてくる。
「っ……ここまで、か……!」
ガレノスの足がぴたりと止まった。
行き止まり――目の前に広がっていたのは、連日の大雨で狂ったように渦を巻く激流だった。
前髪の隙間から覗く幼い「緋色の瞳」が、死の恐怖に揺れている。
ガレノスは自らの血塗られた手を見つめ、歯を食いしばった。そして、心の中で決断を下した。
「姫様……よくお聞きくだされ」
ガレノスはひざまずき、エレの小さな両肩を強く掴んだ。その瞳には、なみなみと涙が溢れていた。
「わしが奴らをひきつけます。姫様は……あちらの崖の隙間へ身を隠し、決して音を立ててはなりませぬ」
「いや……! ガレノスも一緒じゃなきゃ嫌! 置いていかないで……!」
「姫様!!」
ガレノスは老骨に似合わぬ力強い声でエレの言葉を遮った。
「生きて⋯生きてくだされ姫様!あなた様はラディオンの最後の希望なのです!……ルシフィード姫」
ガレノスはルシフィードをそっと背後の深い岩陰へと押し込んだ。
「ガレノス――ッ!!」
エレが伸ばした小さな手。ガレノスはその細い指先を一度だけ固く握り締め――そして、静かにその手を解いた。
「姫様……どうか、お達者で。」
ガレノスは振り返ると、わざと松明を掲げ、大声を上げながら激流の淵へと走った。
「ラディオンの王女はここだ! 奪えるものなら奪ってみよ、帝国の犬どもめが!」
「いたぞ! 追え! 捕らえろ!」
追撃隊の意識が一斉にガレノスへと向かう。
無数の矢が夜空を裂き、ガレノスの肩や脚へと深々と突き刺さった。
「ぐはっ……! 姫……様……ッ!」
血を吐きながらも、ガレノスはニヤリと嘲笑うと、迫り来る敵兵を数人巻き込むようにして、自ら濁流の吹き荒れる崖下へと身を躍らせた。
ドボンッ――!!!!
激しい水柱が上がり、老人の姿は一瞬にして黒い渦の中に飲み込まれて消えた。
「くそっ、飛び降りやがった! 捜せ、引き揚げろ!」
怒号を上げる敵兵たちの足音が、やがて遠ざかっていく。
岩の隙間で、エレは己の口を両手で固く塞ぎ、声を殺して泣き続けた。
雨と血の匂い。暗闇。そして、冷たく残された手首の感触。
(ガレノス……ガレノス……っ!)
頼れる者をすべて失い、世界にたった一人取り残された夜。
幼き王女の心からすべての「温もり」が消え去り、凄惨な復讐の芽が芽生えた瞬間だった。




