第6話 亡国の薬師(ガレノス回・前編)
深夜の幕舎から去り、静まり返った軍営の闇に身を潜めながら、ガレノスは皺だらけの手をぎゅっと握りしめていた。
頭巾の陰から見上げた夜空には、冷ややかな月が浮かんでいる。その月を見つめるたび、老薬師の脳裏には、いまは亡き美しき王国の光景が鮮烈に蘇るのだった。
十年前――ガルディニア帝国の鉄脚に踏みにじられる前のラディオン王国。
南方の大地に広がるその国は、豊穣な土地と豊かな薬草、そして太陽の恵みを一身に受けた平和な王国であった。ガレノスはその王宮で、代々王家に仕える御用薬師の長として務めていた。
薬草園で静かに研究に没頭する日々。病に倒れた宮廷の人々に最適な処方箋を書き、王国の繁栄を影から支えることが、彼の生涯の誇りであり天職であった。
「ガレノス! 今日採れたばかりの秘草を見せて!」
薬草園の扉を元気に叩いて入ってくるのは、まだ幼き日のルシフィード姫――今の「エレ」であった。
波打つプラチナブロンドの長い髪を揺らし、ルビーのように澄み渡った輝かしい「緋色の瞳」を爛々と輝かせていた少女。
ラディオン王族だけに授けられた神聖なる緋色の網膜。太陽の光を反射してキラキラと輝くその目で見つめられるたび、ガレノスは「この高貴で慈悲深い光を護ることこそが、我が命の使命だ」と心に誓っていたものだった。
「ルシフィード姫様、あまり走られますと転んでしまいますぞ。さあ、本日の薬草茶でございます」
「ふふ、ガレノスの淹れるお茶は少し苦いけれど、心がすーっと落ち着くから大好きなの!」
花が咲くような笑みを浮かべる少女の傍らには、いつも温かな眼差しを向ける王子妃メディトリナの姿があった。
メディトリナは隣国から政略結婚でラディオン王家へと嫁いできた身であった。見知らぬ異国の王宮。夫となったラディオンの第一王子との関係は、政略とはいえ互いに重んじ合い、決して悪くはなかった。だが、故郷を離れた寂しさと緊張感は、どうしてもメディトリナの心に小さな影を落としていたのだ。
そんな彼女の心を溶かしたのが、夫の幼い妹――ルシフィードだった。
『メディトリナ義姉様! 今日のドレス、とっても可愛い! 一緒にお庭でお茶をしましょ!』
ルシフィードは人懐っこく、初対面の日からメディトリナの腕に抱きつき、屈託のない笑顔を向けてくれた。故郷に残してきた自分と同世代の幼い妹。その面影を思わず重ね合わせ、メディトリナはルシフィードを我が身と同じほど愛おしく思うようになったのだった。
ルシフィードの天真爛漫な無邪気さに触れるたび、メディトリナの緊張は解け、王宮で笑う時間がぐっと増えていった。
『義姉様が笑ってくれると、私、すごく嬉しいの!』
『ありがとう、ルシフィード……。あなたのおかげで、私はこの国が大好きになれたわ』
手を取り合い、温かな陽光の中で笑い合ったあの日々。ガレノスにとって、その平和は永遠に続くものだと信じて疑わなかった。
(……だが、あの悪夢のような夜が……すべてを奪い去ったのだ)
ガレノスは胸元に手をつき、荒い息を吐き捨てた。
帝国の突如たる侵略。轟く鉄の響き、燃え上がる王宮、そして悲鳴。
血と煙が立ち込める狂気の夜の中、ガレノスが薬草園から駆けつけた時には、すでにすべてが遅すぎた。
王族は次々と刃に倒れ、かつて陽光に満ちていた廊下は赤く染まっていた。
「ガレノス……お願い、この子を……ルシフィードを逃がして……!」
炎の中で幼いルシフィードの手を固く握り締め、ガレノスへ託そうとしていたのは、背に凄惨な傷を受け、血に塗れた王子妃メディトリナであった。
夫を失い、城が燃える地獄の中で、メディトリナは故郷の妹のように愛したルシフィードだけは何としてでも救うと心に決めていたのだ。
「義姉様! 一緒に行くの! 義姉様を置いてなんて行けない……っ!」
泣き叫ぶルシフィードの頬を、メディトリナは優しく撫でた。
「泣かないで、ルー。あなただけは逃げて、必ず生き延びなさい……!…生きてさえいれば、いつかまた陽の当たる場所で会えるわ。私との約束よ……生き抜いて……!」
それが、二人の最後の会話となった。
メディトリナは自らの身で庇うようにして隠し通路の扉を閉め、駆けつけた帝国兵の手によって引き立てられていった。
隠し通路の隙間から這い出たルシフィードは、泥の中に倒れ込み、泣き叫ぶ気力すら奪われて震えていた。
ガレノスは泣きじゃくる幼い姫を抱き上げた。その手は熱を帯び、全身が煤と血で汚れていた。
『ガレノス……みんな、死んじゃった……。お父様も、お母様も……』
『姫様……ルシフィード姫様……!』
『私、どうして生きているの……? 私も、みんなのところに行きたい……!』
絶望に打ちひしがれる小さな肩を抱きしめながら、ガレノスは決意した。王室に与えられた命、薬師としての誇り、そのすべてをこの幼い姫の未来のために捧げようと。
『生きるのです、姫様。……どんな姿になろうとも、泥を啜ってでも、お生きなされ。私が必ず、あなた様をお守りいたします』
二人は燃え盛る王都を脱出し、帝国の追手から逃れるために泥に塗れた。
しかし、幼いルシフィードの存在を最も脅かすのは、他でもない彼女のその両眼――闇の中でも異彩を放つ「緋色の瞳」だった。
帝国はラディオン王族の生き残りを根絶やしにするため、緋色の瞳を持つ子供を血眼になって探していた。この美しい目こそが、命を奪う標的そのものだったのだ。
(姫様の命を守るためなら、私は神をも恐れぬ禁忌を侵さねばならん……)




