第5話 影の協力者・ガレノス
ヴァルカ平原での激闘と、後始末がひと通り落ち着いた深夜。エレは将軍幕舎の奥深く、重い幕で仕切られた密室の中にいた。
「……ぐ……う……ッ!」
執務室の暗がりで、エレは洗面台の縁を固く握りしめ、溢れ出る呻きを噛み殺していた。
行軍と激闘を経て、薬効が切れかかった右目の奥から、忌々しいルビーのような「緋色の輝き」がぎらぎらと主張を始めている。
「――姫様。今、薬を……」
暗がりから歩み出たのは、頭巾を被った背の曲がった老人――ガレノスだった。
ガレノスは震える手で二つの小瓶を卓上に置いた。ひとつは濁った深海色の「蒼の呪薬」。そしてもうひとつは、澄んだ琥珀色の小さな瓶だった。
「姫様……こちらの琥珀色の薬をお飲みくだされ。激痛をほんの僅かですが和らげる鎮痛の薬草を処方いたしました。毎回あのような地獄の苦しみを味わわれては、お心が壊れてしまいます……」
薬師として、そして幼少期から姫を見守ってきた者としての切実な哀願。
だが、エレは琥珀色の瓶に視線すら送らず、冷たく言い放った。
「下らん真似をするな、ガレノス。痛みを麻痺させれば鋭気が鈍る。この痛みこそが、私がルシフィードであることを思い出させ、復讐の炎を燃やし続けるための楔くさびだ」
「姫様……っ」
「いいから『蒼の薬』を」
エレは躊躇なく青い液体を自らの両眼に落とした。
「――――ッ!!!!」
灼熱の針で両眼を穿たれるような凄惨な激痛。全身を強張らせ、冷や汗を撒き散らしながら、エレはその苦痛をあえて全身で受け止めた。ガレノスは痛々しさに顔を歪め、ただ祈るように拳を握りしめることしかできない。
やがて激痛が去り、鏡の中に冷徹な「深海の青」を宿した青年将軍が姿を現す。
タオルの上から目元を押さえ、エレは息を整えた。
「姫様……申し訳ございません。この『蒼の呪薬』は、ラディオン王族固有の特殊な網膜血管を強引に短縮・変質させる禁忌の代物。いくら調合を重ねても、肉体への毒性を完全に消し去ることは不可能なのです」
ガレノスは静かに膝をつき、絞り出すような声で言った。
「このまま使い続ければ……二年、持つかどうか。最悪の場合、視力を完全に失うことになります」
「二年⋯か」
エレは自嘲気味に口元を歪めた。
「十分だ。皇帝の首を獲り、メディトリナ義姉様を助け出すには十分すぎる時間だ」
ガレノスは胸を痛めながらも、それ以上エレの決意を止めることはしなかった。彼女がどれほどの血と汗を流し、胸元に晒しを固く巻きつけて性別すら偽り、この帝国の若き将軍という地位まで登り詰めたかを、誰よりも近くで見守ってきたからだ。
「……それで、離宮の様子は」
「は。帝都の『不帰の離宮』に潜入させている我が手の者からの報告です」
ガレノスは悔しさに唇を噛み締めながらも、懐から厳重に封印された小さな紙片を取り出した。
「……帝都の最奥、『不帰の離宮』。間違いございません、メディトリナ様は今もあそこの冷たい檻に幽閉されておられます。命に別条はございません。」
「義姉様は……生きておられるのだな」
「はい、お健やかです。離宮は厳重な監視下にございますが、皇帝は彼女を『亡国ラディオンの残党に対する見せしめ』として生かしているため、命に別条はございません。ただ……」
「ただ、何だ?」
「今もルシフィード姫様……あなた様の無事を、毎夜神に祈っておられるとのことです。」
エレの胸の奥が熱く打った。
あの日、燃え盛る城の中で己の背中を押し、「生きて」と叫んだ優しい義姉。
「今回のヴァルカ征伐の功績で、遠からず私にも帝都への召還命令が下るはずだ。……ガレノス、帝都へ入れば本格的に動くぞ」
「……御意。この老骨、どこまでもお供いたします」




