第46話:刻まれる熱
サフィールはエレの頬を両手で包み込んだまま、逃げ場を塞ぐようにじっと見つめた。
逃げようと泳ぐ鮮烈な緋い瞳。涙に濡れたその瞳を、サフィールは愛おしさに苛まれるような眼差しで見つめ返すと、ゆっくりと顔を近づけた。
「……っ……殿、下……!?」
拒む間もなく、優しく、けれど拒絶を許さない力強さで、彼女の瞼の上に唇を落とす。
「あ……」
熱い吐息が触れ、エレの肩がびくりと跳ねる。サフィールはそのまま、目尻を伝う涙を拭うように左右の目蓋、頬、そして震える唇の端へと、静かに、執拗に口づけを重ねていった。
「言ったはずだ……すべてを暴かれたからと、逃げられると思うな。お前がラディオンの生き残りなら、俺もお前の一族の血を吸った帝国の狂気に加担する身だ。……罪なら、二人で背負えばいい」
「……ッ、私は……あなたを討つために……!」
「討ちたければ討て。この胸に刃を立てる権利はお前にだけやる。だが――俺の前から消えることだけは、絶対に許さん」
言い終えると同時に、サフィールはエレの華奢な体を力任せに引き寄せ、壊さんばかりの力で強く抱きしめた。
傷口の痛みにエレが小さく息を呑むのも構わず、彼女の背に腕を深く回し、己の骨が軋むほどの圧迫感でその身を拘束する。まるで指の隙間からすり抜けていく幻を繋ぎ止めようとするかのように、指先が彼女の背中に食い込むほど強く、力強く抱きすくめた。逃げ出そうとするわずかな隙間すら与えず、胸と胸が隙間なく密着し、サフィールの激しい鼓動と狂おしい体温がエレの肌へと叩きつけられる。
狂おしいほどの情熱と執着。一度は死を望んだエレの胸の奥に、サフィールの熱い誓いが容赦なく打ち込まれていく。抗おうとしても、彼の抱擁と熱からはもう逃れられなかった。
一方、薄暗い小屋の外――。
冷たい秋風が吹き抜ける森の中で、レオンは剣の柄に手をかけたまま、微動だにせず周囲の気配を探っていた。老医師であるガレノスがそっと隣に立ち、低く声をかける。
「……レオン」
「はい、ガレノス様」
レオンは視線を外に向けたまま、変わらぬ敬意を込めて答える。ガレノスは深く溜息をひとつ漏らし、静かに口を開いた。
「エレ様が……あの方が滅びしラディオンの、それも王家に繋がる血筋であったことは、知らなかったろう」
「……はい」
レオンの眉間に深くしわが寄る。エレが女性であることは気づいていたが、「ラディオンの緋い目」の真相までは知らなかった。
「……ラディオンの王女、か……」
レオンは呟くようにぽつりと漏らした。視線は遥か遠く、朝靄の深淵を見つめている。
「どれだけ今まで……お一人で、その重荷を背負ってこられたのか……。男と偽り、呪薬で瞳の色を殺し……血を吐くような思いで剣を振るってこられたのですね」
胸を締め付けられるような切なさと、主君のあまりに凄惨な過去に対する憤り。レオンの拳が、柄を握りつぶさんばかりに軋む。
ガレノスはそんなレオンの横顔をじっと見つめ、覚悟を確かめるように静かに問いかけた。
「レオン。エレ様の正体が暴かれた以上、この先はこれまで以上の困難と追手に見舞われるだろう。帝国からも、反乱分子からも命を狙われる地獄だ。……お前は、この重すぎる秘密を私と共に飲み込み、変わらずあの方に仕えてくれるか?」
その問いに、レオンの眼光が一瞬で鋭く研ぎ澄まされた。
迷いなど微塵もない。その瞳に宿っているのは、まさに命を爆ぜらせるような不退転の覚悟だった。
「……愚問です、ガレノス様」
レオンは短く切って捨てると、冷たい覚悟を秘めた笑みを口元に浮かべた。
「エレ様が男であろうと女であろうと、ラディオンの王女であろうと関係ありません。俺が忠誠を誓った主君は、世界でただ一人……あのお方だけです。たとえ世界中を敵に回そうと、この剣はエレ様のためだけに振るいます」
「……っ、お前ならそう言ってくれると思っておったたよ」
老医師は優しく目を細め、胸をなで下ろすように息を吐いた。
二人の思いが固く結ばれたその時――。
カサリ、と遠くの枯葉を踏みしだく足音が聞こえた。レオンの眉根が跳ね上がる。
「……来ましたね。ゼノヴィアの犬どもです」
「私は戦えんが、薬と煙の仕掛けなら多少の足止めはできる。レオン、任せたぞ」
「はい。ガレノス様は中で待機を。……今あの二人の時間を、邪魔させるわけにはいきません」
老医師を後ろへ下げ、レオンは静かに長剣を抜き放つと、小屋を守る唯一の絶対防壁となって立ちはだかったのだった。




