第43話:紅き瞳の朝
サフィールの胸の中でマントに包まれたエレは、夜半の高熱が嘘のように汗をかき、毒のピークを越えたのか呼吸も穏やかになっていた。サフィールの体温と命がけの水遣りが、彼女を死の淵から繋ぎ止めたのだ。
(……よかった。本当に……無事で……)
愛おしい寝顔を見つめ、サフィールがそっと胸を撫でおろしたその時。
胸元で、エレの身体が小さく跳ねた。
「……ん……っ」
ゆっくりと長いまつ毛が持ち上がり、意識を取り戻したエレの瞳が開かれる。
朝の微かな光を浴びて浮かび上がったのは、昨日と変わらぬ、妖しくも鮮烈な「赤」の瞳だった。
「……殿、下……?」
かすれた声。だが、昨夜のような錯乱はない。
エレの意識が急速に覚醒し、自らの現在の状況――サフィールのシャツ一枚を羽織らされ、全裸に近い状態で彼の腕の中にすっぽりと収まり、密着していることに気づく。
「っ……!? なっ……何――ッ!」
一瞬で顔を真っ赤に染めたエレが、弾かれたように身を引こうとした。
しかし、急激に動いたせいで傷口に激痛が走り、「くっ……!」と顔を歪めて自らの右肩を押さえる。
「急に動くな、エレ」
サフィールは慌ててエレの身体を支え直し、包み込むようにマントを掛け直した。
その手つきの優しさと、伝わってくる確かな温もりに、エレは息を飲む。
「……ここは……」
「ここは川下の洞窟だ。かなり下流まで流されたようだな。」
「……殿下……私たち、川に落ちて……どれくらい経ったのですか……?」
「そんなには経っていない。……ここには一晩いる」
頭に残る微熱に吐息を乱しながら、エレは必死に混乱する記憶を辿る。追っ手の毒矢、濁流の冷たさ、そして絶望の中で自分を温め続けてくれた腕の感触――。
(一晩……? 待って……一晩……!?)
その瞬間、エレの背筋に冷や汗が吹き出た。
「青の呪薬」は、効果が切れる前に飲み続けなければ眼球が激痛に襲われ、本来の色に戻ってしまう。昨夜、薬を使う時間など当然なかった。激流に流され、熱にうなされ、一晩が経過したということは――。
「……っ……私の、眼は……今……!?」
エレは弾かれたように顔を伏せ、両手で激しく両目を覆い隠した。
指の隙間から漏れ出るのは、自分でも抑えきれない震えと絶望。
(見られた……!? 隠し通さなければならなかった、この赤い眼を……!)
指の隙間からサフィールに絶対に見られまいと、必死に顔を背けて縮こまるエレ。そのあまりの動揺ぶりに、サフィールは優しく溜息をつくと、彼女の手首を掴むのではなく、包み込むようにそっと手を重ねた。
「隠さなくていい、エレ」
「だ、ダメです……! 見ないでください……! 私は……っ!」
「もう遅い」
サフィールの低く、どこか愛おしさを孕んだ声が耳元で響く。
「昨夜、嫌というほど見せてもらった。……暗闇の中でも、恐ろしいほど鮮やかで、息を呑むほど美しい赤だったよ」
「……っ!」
サフィールはエレの両手を優しく顔から引き剥がすと、逃げようとする彼女の頬を両手で挟み込み、しっかりと視線を固定させた。
隠しようもなく露わになった、朝光に煌めく鮮烈な緋色の瞳。
頭の中を激しい絶望と眩暈が襲う。
皇帝を討つという誓いも、男として生きてきた歳月も、腹心として築いてきた偽りの立場も、すべてがこの瞬間に灰燼に帰したのだ。これからどうすればいいのか、どう生きればいいのかすら分からない。
震える唇からは言葉すら出ず、ただ自責と絶望の涙が、エレは絶望に唇を噛み締め、隠しようもない赤く澄んだ瞳からボロボロと溢れ落ちる。
「…⋯殺せ⋯。もう……私には抵抗する力も残っていない……」
掠れた声で漏れ出たのは、死を請うような静かな諦念だった。
だが、エレの頬を包み込むサフィールの手に、ぐっと力がこもる。その瞳には、彼女の絶望をすべて受け止めるような、かつてないほど激しく真摯な熱が宿っていた。
「殺すわけがないだろう。言ったはずだ、関係ないと。お前が男だろうが女だろうが、ラディオンの生き残りだろうが……俺の命を救い、俺の心を救ってくれたのはお前なんだ。たとえ世界中を敵に回そうと、俺がこの手でお前を守り抜く」
サフィールは一息に捲し立てる。だが、絶望に濡れたエレの赤い瞳にまっすぐ見つめ返されると、胸の奥が締め付けられるような激しい逡巡に襲われた。
(……好きだ、と。いま、面と向かって告げたら……お前は俺を、ただの甘い皇子だと蔑むだろうか。復讐の刃を鈍らせるための口任せだと疑うだろうか……)
昨夜、熱に浮かされ意識のなかったエレには躊躇いなく溢れ出た情熱。しかし、自分を仇と見なし、すべてを失って打ちひしがれている彼女の瞳を前には、どうしてもその核心の言葉だけが口の中で熱く滞ってしまう。
「……何者であれ、俺はお前を離さない。それだけは覚えておけ」
それが、今のサフィールに言える精一杯の誓いだった。
その時――。
(――ッ!?)
洞窟の外から、カサリと草木を押し分ける気配が聞こえた。複数だ。
一瞬でサフィールの表情から熱が引き、鋭い剣士の顔に戻る。手元にある武器は腰の短剣一本のみ。サフィールひとりなら突破は容易だが、衣服を失い、毒と怪我で衰弱したエレを庇いながらこの極限状態を切り抜けられるか。
「エレ、俺の背に隠れていろ」
サフィールは短剣を握り直し、自らのマントでエレの身体を完全に覆い隠しながら、彼女を背中に庇い立てる。
(頼む……追っ手ではなく、味方であってくれ……!)
サフィールが息を殺し、刃を構えた次の瞬間。
「――エレ様……ッ!!」
洞窟の偽装が引き剥がされ、身を投げ出すように入ってきたのは、顔を強張らせたレオンだった。
「レオン……!?」
「……っ、無事だった……! 神に感謝を……っ」
冷徹な側衛であるはずのレオンが、一瞬だけ感情を溢れさせて膝をつく。サフィールの無事を確認しつつも、その瞳はマントの影に隠れたエレの無事へと向けられていた。
すぐ後ろから、息を切らしたガレノスが駆け込んでくる。
「はぁ……はぁ……! お二人とも、ご無事でしたか……! 本当に、本当によかった……」
張り詰めていた洞窟の空気が緩み、味方の到着にサフィールは深く息を吐き出したのだった。




