第41話:洞窟の闇、明かされる仮面と熱情
氷のように冷たい水面が激しい衝撃とともに全身を叩きつける。濁流に揉まれ、上下の感覚すら失いながら、流木のように下流へと押し流されていく。幾重もの岩肌に打ちつけられながらも、サフィールは必死にエレを抱え込み放さなかった。
どれほど流されただろうか。勢いが幾分か和らいだ岩場で、這うようにして河原へ這い上がった。
「生きて……いるか……」
荒い息を吐きながら周囲を見渡すと、濡れた岩肌の影に小さな洞窟の穴がぽっかりと口を開けていた。
「あそこだ……入れ……!」
引きずるようにして身を隠した暗がりの中、二人は荒い息を整えた。凍える身体を震わせながら、まずは刺さったままの矢を抜かなければならない。
だが、傷口の周囲を確かめた途端、血の気が引いた。肉がどす黒く変色し、刺さった矢の根本から嫌な甘い匂いが漂っている。
「…⋯っ…毒、ですね…」
「エレ、歯を食いしばれ!」
右腕の肉を固く押し出し、貫通した矢尻を慎重かつ一気に引き抜く。
「ぐうっっ…!」
絶叫を噛み殺す口内に、激痛と血の味が広がる。しかし、本当の苦痛はここからだった。毒が全身に回るのを防ぐため、傷口のすぐ上を破いた布で締め上げ、濁った黒い血を容赦なく揉み出した。
灼熱の炎で肉を焼かれるような毒の痺れが、じわじわと腕を登ってくる。
「頼む……止まってくれ……!」
気休め程度の血止めを施し、溢れ出る朱を固く縛り上げると、二人は崩れ落ちるように冷たい岩肌に背を預けた。
エレの視界はかすみ、激しい悪寒と高熱が同時に襲いかかる。
「エレ…!…しっかりしろ! 意識を保て!」
矢を抜いた右腕からじわじわと毒が回り始めているのか、荒い吐息を漏らし、激しい悪寒に身を震わせている。額に手をかざせば、まるで灼熱の鉄に触れたかのような高熱だった。
「寒っ……体に、力が入ら…な…」
「くそっ…毒が回ってる。また毒なのか⋯!」
濡れて冷え切った衣服が容赦なく体温を奪っていく。このままでは毒が全身に回るか、低体温で命を落とすかの二択だ。サフィールは意を決し、自らの濡れた上着を脱ぎ捨てると、エレの身体を抱き寄せるようにして冷たい岩肌に背を預けた。
「……何、を……」
「⋯体を温めるためだ⋯少し我慢してくれ」
互いの体温だけが頼りの暗闇の中、うわ言のように途切れ途切れの会話が交わされる。
「崖から飛び降りるなんて…無茶です……」
「お前が射抜かれなければ、そのまま逃げ切るつもりだった。……すまない、私のせいで」
「…腕一本で済んだなら、安いものです……」
徐々に荒い呼吸が小さくなり、うわ言すら途絶えて重い沈黙が洞窟を満たす。胸の上下だけが、まだ命が繋がれていることを示していた。
「死ぬなよ……絶対に、生きて戻るぞ」
「……。」
「……エレ?おい、返事をしろ! エレ!」
肩を揺すっても、もはやうわ言すら返ってこない。荒かった息は浅く途切れがちになり、浅い吐息を漏らすばかりだ。毒の熱と川水の冷たさが同時に蝕み、身体は氷のように冷え切っている。
(ダメだ……濡れた服が体温を奪い続けている……!)
このままでは毒が全身に回る前に凍死する。一刻の猶予もないことを悟り、意を決して胸元に手を掛けた。
「すまない、エレ…」
かじかむ指先で意識のないままガタガタと震えるエレの濡れた衣類を解き、慎重に肌から剥ぎ取っていく。右腕の痛々しい傷口を避けるようにして脱がせたその時、手元が止まった。
濡れた衣類の下から現れたのは、硬質な兵士のそれとは程遠い、滑らかな曲線を描く肌だった。暗がりの中でもハッとするほど白く、息をのむほど美しい。そしてその豊かな胸元には、痛々しいほどきつくサラシが巻きつけられていた。
(……女!?⋯エレが⋯女性⋯)
どこか拭いきれなかった違和感。過剰なまでの禁欲的な立ち振る舞いや、時折見せていた繊細な身こなし――そのすべての謎が、目の前の光景で氷解していく。
男として振る舞い、過酷な戦場を共にしてきた腹心の正体。一本の線となって結ばれていく。
「こんな無茶な晒しの巻き方をして……息もしづらかったろうに」
驚きはあったが、迷っている暇はなかった。サラシが水を吸って胸を締め付け、呼吸をさらに浅くさせている。解くべきか一瞬ためらったものの、命には代えられない。冷えた指先で結び目を解き、締め付けから解放してやると、彼女の胸が大きく、ゆっくりと上下した。
エレが、ふと苦しげにうわごとを漏らした。
「……ガ⋯レ…っ……、いや……っ、置いて行かないで……っ……」
掠れた、か弱く切ないうめき声だった。それは普段の冷徹で完璧な腹心としての彼女からは想像もつかない、あまりにも幼く、絶望に満ちた泣き声だった。
恐怖と孤独に震え、涙を滲ませながら縮こまるエレの姿を見て、エレの体をためらうことなく引き寄せ、自分の胸に強く、壊れてしまうほどに力強く抱きしめた。冷え切った彼女の肌から伝わる熱が、サフィールの心を締め付ける。
「エレ、大丈夫だ……! ここにいる、お前を一人になんて絶対にしない……!」
「お前が誰であろうと関係ない! 男だろうと女だろうと、そんなことはどうでもいい……! 俺にはお前が必要だ、好きだ……!エレ⋯」
洞窟の闇に響き渡る、偽りのない情熱的な愛の告白。
サフィールは、自分の腕の中でやっとの思いでその温もりを受け止められた奇跡に、あふれ出る想いを抑えきれなかった。その瞬間、喘いでいた呼吸がすっと静まった。唇の端が僅かに緩み、まるで守られていることを知っているかのような安らかな影を落とした。
だが、その直後、これまでエレの瞳の色を偽り続けていた「青の呪薬」の効果が、限界を迎えた。
「あぁっ……、んっ……ぅ…ああぁ…!」
激しい痛みに、エレは喉を絞るような悲鳴を漏らしながら悶え苦しんだ。
まるで眼球を焼かれるような灼熱感と、耐え難い激痛にエレは両手で顔を覆い、自らの目を激しく押さえる。そのあまりの苦しみ様に、自分の手で目を傷つけてしまうのではないかと焦ったサフィールは、すぐさまエレの両手首を掴んでしっかりと押さえた。
「エレ、しっかりしろ……っ!」
サフィールに手を押さえられたまま、エレが苦痛に耐えかねて、ふっと目をを大きく見開いた。
そこに浮かんでいたのは、焦点を失ってうつろに揺らぎながらも、闇夜を切り裂くような、鮮烈な「赤色の瞳」だった。
頬を伝う一筋の涙が、その赤い光に濡れて妖しく煌めく。
(…⋯鮮やかな赤い瞳……! エレ、やはりお前は……ラディオンの……!)
胸を突き刺すような確信。だが、エレは激痛に耐え切れず、再びガクッと力を失い、その美しい赤い瞳をふわりと閉じて意識の底へと沈んでいった。
サフィールは荒い息を吐きながら、ぐったりとしたエレの体を洞窟の奥の平らな岩肌へそっと横たえた。そして気配を殺すために迅速に動き始める。
追っ手がいつこの辺りを探しに来るか分からない。夜の間は下手に火を焚くわけにはいかず、煙や明かりで居場所を知らせるリスクは冒せなかった。サフィールは洞窟の外へ素早く出ると、周囲の枯れ木や大きな岩、茂みの草木を手際よく拾い集め、洞窟の入り口を上手く偽装して隠した。
少しでも冷気を遮断し、身を潜める準備を整えてから、サフィールは再び洞窟の奥へと戻った。
濡れた衣服を乾かすこともできない闇の中で、冷え切っていくエレの小さな体を温める方法は一つしかなかった。
サフィールは自身の濡れた上着とマントを脱ぎ捨てると、横たわるエレを抱き上げ、衣服を剥ぎ取られた彼女の素肌を自分の体にぴったりと密着させた。自分の体温をすべて分け与えるようにしっかりと抱きしめ続けた。洞窟の暗闇のなか、肌越しに伝わる互いの鼓動だけが、静かに重なり合っていた。




