第40話:落日の狩猟祭
リュシアンがいなくなった宮廷では、そろそろサフィールを正式に皇太子に据えようという話が現実味を帯びて持ち上がり始めていた。しかし、水面下ではまだ予断を許さない。同じく継承権を持つ皇弟ゼノヴィア一派が怪しい動きを見せ、虎視眈々とサフィールの命を狙っているのだ。
そんな慌ただしい政局の裏で、エレは静かに重大な決断を下していた。
リュシアンの一件が一段落し、戦乱の気配が遠のいた今、国境沿いの守りを固める軍の再編という大義名分のもと、エレは立太子の儀式が終わり次第、城を出て行く準備を進めていた。
もっとも、これまでは先の暗殺未遂事件で負った傷の療養という名目で宮殿に滞在していたエレだったが、それも実務に支障がない程度には回復していた。「いつまでも療養にかこつけてここに留まるわけにはいかない」と、エレ自身はそろそろ本来の現場へと復帰し、日常の任務に戻るつもりでいたのだ。
一方、サフィールはエレが城を出て行くという噂を聞きつけ、焦燥感に駆られていた。
メディトリナとの対話を経て、エレの正体への疑念が確信へと変わりつつある中、サフィールの心はすでに決まっていた。男であろうと女であろうと関係ない。自分のこの気持ちをもう偽ることはできない。これからはこれまでのように頻繁に会うこともできなくなる。だからこそ、立太子の儀式の前の皇室主催の狩猟祭でしっかり自分のすべての想いを伝えようと心に決めていた。
そして迎えた、皇室主催の狩猟祭の当日。
出発を告げるホルンの音が響く直前、サフィールは隣に立つエレの姿を見て思わず息を呑んだ。
今日の狩猟のためにしつらえられた衣装は、動きやすさを重視しつつも高貴な気品と美しさを極め、エレの整った容姿をこれ以上ないほどに引き立てていた。
(……くそ、本当に目を奪われる……)
見とれながら、さりげなくエレと並ぼうと歩み寄ったその時、不愉快な声が背後からかけられた。
「おや、仲睦まじいことで。次代の皇太子殿下は、ご自慢の側近を飾り立てるのにお忙しいようだな」
振り返ると、そこに立っていたのは、まだ30代前半の若さと血気盛んな野心を隠そうともしない皇弟・ゼノヴィアだった。同じく皇位継承権を持つ彼は、サフィールを常に値踏みするような鋭い眼差しで睨みつけている。
バルドリックは、サフィールとエレの間に流れるただならぬ空気を品定めするように薄笑いを浮かべて、ねっとりとした視線をエレに向けた。
「噂には聞いていたが、たしかにその辺の貴族令嬢よりもよほど美しいな、その男。……おい、サフィール。あまり周囲に目の毒をまき散らさぬことだ。せいぜい、誰かに奪われないように気を付けることだな」
あからさまな邪推と嫌味。だが、当事者であるエレは、ゼノヴィアを一瞥すらせず、何処吹いた風といった様子で聞き流していた。宮廷の男どもから似たような軽口を叩かれすぎてもはや慣れてしまっていた。それどころか、エレは冷ややかに目を細めると、むしろ余裕の笑みすら浮かべて言い返す。
「ご心配には及びません、皇弟殿下。あいにくサフィール第一皇子殿下は、犬畜生よりも厄介な害獣の駆除にお忙しいものでして。お飾りに構っている暇などございませんよ」
「ほう…!」
嫌味を何倍にもお返しされたゼノヴィアは暗い愉悦に瞳を輝かせ、含み笑いを漏らす。
サフィールが冷徹な眼差しでその間に割り込んだ。
「……叔父上、無駄口はそこまでになさってください。狩猟の場では、どのようなハプニングが起きるか分かりませんのでね」
サフィールは冷ややかな声で一蹴すると、バルドリックを置いてエレの手を引くようにしてその場を離れた。
二人は馬を並べ、静かに森の入口へと向かう。
「……大丈夫か、エレ」
「何を今さら。あのような愚痴に心を乱すほど、私の精神は柔くありません」
ふっと冷ややかに微笑んだエレを見て、サフィールは表情を引き締め、低い声で念を押した。
「気を抜くなよ、エレ。リュシアンの件は片付いたが、あの叔父上……ゼノヴィアはリュシアン以上に狡猾で危険だ。いつ牙をむいてくるかわからん。十分に気をつけろ」
「……承知しています。殿下こそ、お気をつけて」
互いに気を引き締め合い、狩猟が開始された。
最初は順調に獲物を追い、周囲の貴族たちや護衛部隊とも足並みが揃っていたが、深い森の奥へ進むにつれて、霧が濃くなり、周囲の様子が一変する。
(……おかしい。部隊との距離が離れすぎている……!)
サフィールが異変に気づいた瞬間、背後から凄まじい殺気が襲いかかった。
「――殿下、伏せてくだい!」
訓練された兵士などではない、闇に紛れる凄まじい手練れの刺客たちだった。矢継ぎ早に放たれる刃の嵐の中、サフィールとエレは護衛の部隊から完全に引き離され、深い森の奥へとバラバラに分断されていく。
「くそっ……!」
追っ手を斬り伏せながら逃走する二人の背後から、不気味な弦の音が響いた。
――ビュッ!
追っ手の矢に射抜かれた馬が苛烈な嘶きとともに倒れ伏し、二人は激しく地面へ投げ出された。
「ぐっ…殿下!」
「怪我はないか!? 行くぞ、私の手を掴め!!」
鉛のように重い両脚をただ本能だけで前へ突き出し、腐葉土に足をとられながら、二人で泥を這うように走り続けた。
「くそっ、しつこい……!」
背後から迫る苛烈な気配。振り向かずとも、刃が届く距離まで追い詰められたことを首筋の寒気が告げていた。
直後、風を切り裂く嫌な音が頭上で奔る。
「危ない!」
反射的に体を滑り込ませ、エレはサフィールの背中を強く押し倒していた。
バツン、と肉を穿つ嫌な感触と、遅れて襲いかかる灼熱の劇痛。右肩の下に、追っ手の解き放った矢が深く突き刺さっていた。
「エレっ!」
激痛に視界が真っ白に染まり、歯を食いしばる口内に血の味が広がる。
「…っ!大丈夫です!」
しかし、止まればその瞬間に二人まとめて首を撥ねられる。溢れる血をかえりみず走り直した。
だが、逃走劇は残酷な形であっけなく終わりを迎える。
開けた場所へ飛び出した途端、足もとの土砂が崩れ落ちた。
視界の先には、荒れ狂う濁流が音を立てて渦巻く激流。追い詰められたのは逃げ場のない断崖絶壁だった。
「ここまでか……」
振り返れば、木々の隙間から冷たい殺気を孕んだ影たちが、ゆっくりと包囲網を縮めてくるところだった。退路は断たれ、右腕からは朱い血が絶え間なく滴り落ちている。逃げ場のない崖っぷちで、二人は最後の選択を迫られていた。
「ここまでまでだな仲良く死ぬがいい!」
選択肢はもはや残されていなかった。
「……手を離すなよエレ!」
「殿下、まさか――っ!」
サフィールはエレの手を強く掴むと、そのままエレを抱きかかえ、容赦なく切り立つ崖から濁流へと飛び込んだ――。




