第38話:崩れる仮面
リュシアンの突然の逃亡劇から数日――。
公的には「行方不明」として捜索が続けられているものの、その行方は誰も掴めぬまま、彼という後ろ盾を失った第二皇子派閥は瓦解の一途を辿っていた。
サフィールが持ち帰った自白と物的証拠により、バルタザール公爵家は反逆の罪で容赦なく弾劾され、一夜にしてその強大な権勢から引きずり下ろされる。派閥に連なっていた貴族たちも蜘蛛の子を散らすように保身に走り、宮廷内の勢力図は急速に塗り替わっていく。
だが、権力闘争の嵐が吹き荒れる中、サフィールの心は別の澱みに囚われていた。
(――10年前のラディオン王国侵攻⋯、王族の最期……)
リュシアンが残した言葉が、呪いのように頭から離れない。
あの尋問の夜、エレが見せた激しいまでの殺意と、リュシアンが口走ったラディオンの記憶。二つの点が結びつき、サフィールの中で無視できない波紋を広げていた。真相を確かめなければならない。そう衝動に突き動かされたサフィールは、自ら足を向け、エレの執務室の扉を叩いた。
静寂を破るノックの音に、エレは書類から目を離さず、低く落ち着いた声で「入れ」と許可を下ろす。
入室してきた人物の気配に気づき、エレが顔を上げた瞬間、その整った顔にわずかな驚愕の色が走った。エレは慌てて椅子から立ち上がる。
執務室に、ぴんと張り詰めた重い沈黙が落ちる。
互いに言葉を発さぬまま、数秒が経過した。サフィールの鋭い視線がエレの顔を捉えて離さず、エレはかすかに息を整えると、波風を立てぬよう完璧な仮面を貼り直した。
「何の御用でしょうか。サフィール殿下」
淡々としたエレの問いかけに、サフィールは静かに歩み寄り、低い声で尋ねた。
「エレ。お前に尋ねたいことがある」
「……私に?」
エレの青い瞳は、どこまでも冷ややかだった。感情の波一つ立てないその仮面のような美しさに、サフィールはわずかに歯噛みする。
「お前は以前、ラディオン王国について何か知っているような素振りを見せた。……リュシアンも行方不明の直前、お前にその話をしていたようだな。お前は一体、何を知っている。……いや、お前は何者だ」
一歩、また一歩と詰め寄るサフィール。
その声には、冷徹な追及だけでなく、隠しきれない焦燥と、これ以上に遠ざけられたくないという執着が混じっていた。
「殿下」
静かな追及に対し、エレは微動だにせず、ただ冷徹な瞳を向けた。
「何のお話か、一切分かりかねます」
ピシャリと遮るように、エレは言い放つ。
「お話がそれだけでしたら、どうぞお引き取りください」
完璧に壁を作り、鋭い刃のようにサフィールを突き放すエレ。
その冷酷なまでの拒絶を目の当たりにし、サフィールの胸の内で黒い炎のように渦を巻き燻っていた思い――エレのまとう底知れない秘密と心の奥底にある傷を暴いてしまいたいという焦燥が音を立てて決壊した。
ガタンッ、と鋭い音が響く。
返事をする間もなく、サフィールは逃げ場を塞ぐようにエレの身体を執務室の壁へと追い詰め、頭上の壁にドンと片手を叩きつける。
「っ……殿下……!」
あまりの勢いと近さに、エレの青い瞳が大きく見開かれる。
――二人の鼻先が触れ合ってしまいそうなほどの至近距離だった。
すぐ目の前に迫ったサフィールの端正な顔立ちからは、気圧されるほどの熱と、激しい怒り、そして隠しきれない切なさが入り混じった圧倒的な圧力が放たれている。逃げ場のない壁際に押し付けられ、鼓動がうるさいほどに早鐘を打つ。
「エレ… お前が何を隠していようと構わない⋯。過去がどうとか、そんなものはどうだっていい……! だが、お前が一人で傷つき、危険に身を投げるような真似は絶対に許さない!いつもそうだ、一人で何を背負い、どこへ行こうとしている!!。俺の目とどかぬところへ行くな……っ、俺から離れるな、エレ!」
それは命令であり、同時に、誇り高い皇子が必死に相手にしがみつくような、剥き出しの切実な叫びだった。
鼻先が触れそうなほどの距離で交わされる荒い呼吸が、互いの体温を嫌でも伝えてくる。
心臓を鷲掴みにされたような息苦しさと、胸の奥を激しく揺さぶられる熱量に、エレは瞳を大きく揺らした。冷徹な仮面が音を立ててひび割れる。込み上げてくる涙と熱を、震えそうになる唇を歯で噛み締め、必死に押し殺す。
最後の力を振り絞ってその胸を押し返そうとした。
その時――。
ガチャン、と慌ただしく執務室の扉が盛大に開き放たれた。
「――エレ様! バルタザール公爵家の隠し金庫から新たな書状が……って、……は?」
飛び込んできたのは、側近のレオンだった。
だが、目の前の光景を視界に入れた瞬間、レオンの表情が音を立てて凍りついた。
皇子であるサフィールが、エレを壁際に追い詰め、鼻先が触れ合うほどの超至近距離で顔を寄せ合っている――。
一瞬の静寂の後、レオンの顔に浮かんだのは強烈なまでの冷ややかさと、侮蔑に近い怒りだった。
「……皇子殿下ともあろうお方が、公私の区別もつけず、我が主君に一体何をしておられるのですか」
氷点下の底冷えするようなレオンの声音が、室内に響き渡る。
レオンはサフィールへの忠誠などどこ吹く風とばかりに、舌打ちさえしかねない冷徹な目を向けながら、スッとエレの前に割って入るように進み出た。
現実へと引き戻されたサフィールは、わずかに眉をひそめると、気まずさと苛立ちを飲み込んでエレから身体を離した。エレもまた、素早く背筋を正して冷徹な仮面を貼り直す。
サフィールは危険な熱を帯びた瞳を一度だけエレに向けた後、険しい表情でレオンへと視線を移した。
「……レオン。その不敬な態度はなんだ」
「おや、なにかまずいところを見られたと焦っておられるのですか。……報告がございます、殿下。至急、執務室へお戻りください」
レオンはサフィールに背を向けるようにしてエレを庇い、冷ややかな視線を向けたまま執務室の扉を開け放った。
サフィールは悔恨と熱を孕んだ視線を最後にエレの背中に残し、渋々とその場を後にした。
執務室の重い扉が閉ざされ、再び静寂が訪れた。
「…………っ」
エレはデスクの縁に両手をつき、わずかに震える身体を支えるように深く息を吐き出した。
先ほどまで張り付けていた冷徹な仮面はすでに剥がれ落ち、その青い瞳には隠しきれない動揺と混乱の色が浮かんでいた。
(……あんな至近距離で…。あんな…瞳を向けられたのは初めてだ)
サフィールのまっすぐすぎる熱と、すべてを暴き出そうとする鋭い直感。
ただの側近としての演技や、冷たい拒絶だけでは、彼の追及をいつまでもかわし続けることはできない。あの男の洞察力は、エレが想像していた以上に底知れなかった。
(私の正体に勘づいている……? いや、確信には至っていなくとも、あの勘の鋭さなら――このままでは、すべて暴かれるのは時間の問題かもしれない……)
背筋を這い上がるような悪寒が、エレの理性を激しく揺さぶる。
それでも、ここで立ち止まるわけにはいかない。
震える指先を固く握り締め、エレは冷たい決意を再びその瞳に灯す。彼にこれ以上踏み込まれる前に、動かなければならない――。
――その頃。
帝都から遠く離れた北方の隠れ家にて。
厳重に守られた薄暗い部屋のなかで、静かに事態を見守る者たちがいた。
――10年前に国を奪われた、ラディオン王国の残党たち。
「……リュシアン第二皇子が行方不明、そしてバルタザール公爵家の失脚。帝国は今、慌ただしく動いておるな」
「焦る必要はない」
老練な部下が恭しく告げると、その上座で静かに目を閉じていた男がゆっくりと重い瞼を開いた。その瞳には、私怨を超えた深い憂いと、静かなる決意の光が宿っている。
「私たちの悲願は、ただの復讐ではない。……王家の血脈と、失われた誇りを取り戻すことだ。いついかなる時も動けるよう、準備だけは怠るな。時節が満ちたとき、一寸の迷いもなく牙を剥けるよう、万全を期すのだ」
「はっ……! あのお方の御ために我らはいつでも動けるよう備えております」
静謐な空間に誓いの声が響く。
復讐の炎を静かに、しかし確実に内包した歯車が、時機を待ちながらゆっくりと回り続けていた――。
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