第36話:余韻
冷え切った自室の扉を激しく閉ざすと、エレはその場に背中を預けるようにして滑り落ちた。
「……っ!」
胸を焦がすような怒りと、押し寄せる激しい疲労。先ほどサフィールに向けた冷徹な拒絶の余韻が、指先からジリジリと痺れるように伝わってくる。
頭を冷やすように両膝を抱え、エレは深く息を吐き出す。
(私は、一体何を……)
冷たい床の上で、エレの胸の内にじわりと苦い澱が広がっていった。
サフィールが自分に対して抱いている感情が、決して悪意あるものではないことくらい、痛いほど分かっていたはずだ。あの男はリュシアンのような残虐な人間ではないし、帝国の中枢にいながらも、どこか自分と同じ痛みを抱えているかのように真摯に寄り添おうとしてくれていた。
だが、あの極限状態の中では――目の前に立つ「皇子」という血統そのものが、過去の悪夢と直結してどうしても許せなかった。
感情の矛先を誤っていると分かっていながら、あふれ出る拒絶を抑えきれず、その優しさを真っ向から跳ね除けてしまった。
胸の奥に残るのは、後悔というよりも、どうしようもない重苦しさだった。
誰よりも冷静で、冷徹に復讐を遂げなければならないというのに、こんなところで余計な波風を立ててしまった。サフィールがどれほど傷つき、戸惑ったか想像に難くない。
だが、今の自分には、その歪んだ関係をすぐに修復する余裕など残されていなかった。
エレは冷たい水で無理やり顔を洗い、鏡に映る自らの青ざめた表情を引き締めると、再び完璧な「将軍・エレ」の仮面をその肌に貼り付けた。
――翌朝。
宮殿の執務室には、昨夜の嵐のような動揺を微塵も感じさせない、冷徹で凛としたエレの姿があった。
しかし、その表情の奥底には、以前よりも一層鋭く研ぎ澄まれた刃のような殺意とともに、拭い切れない重苦しい影が潜んでいる。
そこへ、重厚な扉が静かにノックされ、引き締まった面持ちのレオンが入室してきた。
「エレ様、ご報告があります」
「……なんだ」
エレが低く促すと、レオンは一礼し、手にした書面をしっかりと胸に抱えたまま進みでた。
「地下牢に投獄されているリュシアンの動静についてですが……。どうやら、彼を背後で操っていた帝国貴族の一派が、口封じのために動き始めているフシがあります。地下牢の警備に、見慣れない者たちが近づいた形跡が確認されました」
その言葉を聞いた瞬間、エレの青い瞳が危険な光を帯びて細められた。
(……口封じだと? リュシアンは私がこの手で殺す。誰だろうと邪魔することは許さない⋯!)
胸の内で燻る後悔と感傷を、エレは冷酷な意志の力で無理やり海の底へと沈めた。そして、氷のように冷たい声音で絶対的な命令を下す。
「……虫唾が走る。だが、今はまだ泳がせておく。警備を強化しろ!ネズミ一匹通すな。リュシアンが自らの口で全ての黒幕を吐くまで、絶対に死なせるなよ」
「はっ!」
レオンは力強く頷き、一度深く頭を下げた。その際、ちらりとエレの顔色を窺うように視線を向け、わずかに眉をひそめる。
「……エレ様。ご無理なさらないでくださいね」
昨夜からの激しい消耗や心の揺れが、どれほど完璧に隠されていても、側近であるレオンには微かに伝わっていた。
「……あぁ、大丈夫だレオン」
レオンが静かに部屋を辞していく。
静まり返った執務室の中で、エレは窓の外の冷たい朝焼けの空を見据え、かすかに震える拳を固く握り締めた。




