第35話:拒絶
冷酷な殺意と理性の激しいせめぎ合いの末、リュシアンをその場に残して暗黒牢を後にしたエレ。
冷たい石畳を静かな足音で歩きながら、胸の内で渦巻いていたマグマのような怒りと熱を、必死に鎮めようと深く息を整える。
(……感情に飲まれてはならない⋯!)
だが、深く傷つき、隠しきれない心の消耗と疲労が、エレの足取りをじわじわと重くしていた。呼吸をするたびに、内側から熱を帯びた澱んだ空気が胸を焼く。
自室へと続く、静まり返った回廊の影に差しかかったその時――。
ふと、微かな足音とともに、前方に佇むひとりの人影に気づき、エレは反射的に足を止めた。
「……エレ」
低い、しかしどこか深い憂いと心配の色を帯びた声が、夜の闇に溶けるように響く。
そこに立っていたのは、第一皇子サフィールだった。
サフィールは、夜更けにエレが一人でどこへ向かうその背中に、尋常ならざる冷たい闇が漂っていることにに気づき、密かにその後を追っていたのだった。月明かりの届かない回廊の薄闇の中、地下牢から戻ってきたエレの顔には、普段の完璧な仮面の下に、隠しきれないほどの激しい消耗の色が貼り付いていた。
(⋯地下牢へ行っていたのか⋯。一体何を⋯)
サフィールは静かに歩み寄り、エレの顔を覗き込むように距離を詰めた。
いつもの涼やかな美貌はどこか青白く、纏う空気には触れれば切れてしまいそうな鋭利なトゲと、底知れぬ暗さが残っている。その痛々しいまでの佇まいに、サフィールの胸の奥が締め付けられた。
「……殿下。こんな夜更けに、どうされたのですか」
エレはの奥に激しく揺らめく暗い感情を隠すように、冷たく美しい笑みを薄っすらと貼り付け、淀みない声で問い返した。
サフィールは小さく息をつくと、迷うことなくエレの肩にそっと温かな手を置いた。
「……顔色が悪いぞ、エレ。無理をするな」
その手から伝わる確かな体温。だが今のエレにとって、その優しさは胸の内で煮え滾る黒い感情を逆撫でるだけのものだった。
(……っ!)
込み上げる怒りと苛立ちを冷たく押し殺し、エレはサフィールの差し伸べた手を、無言のままパッと冷たく払いのけた。
「……エレ?」
びくりと動きを止めたサフィールを、エレは冷え切った、底の知れない青い瞳で見据える。その視線には、怒号すらない、完全に拒絶しきった絶対的な冷たさが宿っていた。
「…殿下⋯」
静かに、しかし刺すように冷たい声が回廊に落ちる。
「……お気遣いは無用です……」
それ以上の言葉は不要とばかりに、エレは吐き捨てるように言い放った。
そこに込められていたのは、感情を逆立てて叫ぶよりも残酷なまでの拒絶だった。
サフィールは突然の突き放すような言葉と、エレの瞳に浮かぶ圧倒的な拒絶の気配に、その場で言葉を失い、完全に動きを止めてしまった。
「失礼します」
これ以上そこにいることすら耐えられないとばかりに、エレは冷ややかに背中を向けた。
裾を翻し、静まり返った闇の中へと自分の部屋へ足早に駆け戻っていく。
取り残されたサフィールは、冷たい空気が漂う回廊に呆然と立ち尽くし、エレが消え去った暗がりの方を、ただただ動けぬまま見送ることしかできなかった。




