第33話:崩壊
残酷な描写、発言あり。
乾いた鞭の打撃音が、湿った地下牢の凍てつく冷気を切り裂いた。
「ぐっ……あぁ……っ! もう…やめ…っ!」
石畳の床に転がったリュシアンは、もはや美しい第二皇子の面影を完全に失っていた。泥と自らの鮮血にまみれた高級な軍服は引き裂かれ、幾重にも走る鞭の痕から滲んだ赤黒い血が冷たい床を汚している。呼吸をするたびに肋骨あたりから嫌なきしみが響き、泡混じりの血が痙攣する唇からポタポタと垂れ落ちていた。
だが、極限の痛みに顔を歪めながらも、リュシアンの口から漏れるのは哀れな謝罪ではない。血走った瞳孔を見開き、歪んだ口元を限界まで開いて、目の前に立つ兄へと汚い罵声を喚き散らしていた。
「サフィール……っ! いつもそうだ、お前は昔から何をしても完璧ぶって、私をゴミクズのように見下して……! 私をこんな暗い穴に引きずり下ろしやがって、呪ってやる、お前も、私を捨てたあの冷血な父親も、皆まとめて地獄に落ちろ……っ!!」
「……。」
サフィールは冷徹な手つきで、血に濡れた鉄の鞭を地面に下ろした。その美貌に息乱れは一切ない。狂乱して喚き散らす弟の罵声など、吹き抜ける風の音を聞くかのように完全に無視し、ただ機械的に、しかし容赦なく尋問の主導権を握り続ける。
「ふざけるな、ふざけるなっ! 私を誰だと思っている! 帝国第二皇子リュシアン様だぞ! お前のようなただの父上の道具に、私が屈するとでも思ったのか……っ! …エレ…っ!あいつもだ! あの時、くたばっていればよかったものを、どいつもこいつも、私を邪魔する忌々しい害虫どもめ……っ!」
「そろそろ鳴きやんだらどうだ。」
サフィールは一切の動揺も見せず、冷ややかな声音で遮ると、震えながら這い回るリュシアンの髪を容赦なく掴み、無理やりその頭を引き上げた。醜く歪んだ弟の顔を見据えながら、その声には微塵の情けも宿っていない。
「アルカディアの密使と最初に接触したのはいつだ。裏切りの全容を記した証印のありかを吐け。お前のその卑しい命が少しでも長らえる道があるとすれば、それだけだ」
「ふ、ふざけるな……吐くものか、何もかもお前たちの思い通りになんて……! ぐっ、は……っ!」
サフィールは容赦なくリュシアンの頭を石畳に叩きつけた。鈍い衝撃に、リュシアンはうめき声を上げながらも、なおも床に這いつくばりながら悪態を吐き続ける。
「はは、ははは……! 無駄だ……! お前たちだって、あの冷酷な父上の手のひらの上で踊らされているだけの滑稽な道化に過ぎん! いつか父上はお前たちも同じように切り捨てる…私と同じようになぁ…!」
「……使い物にならん男だ」
血塗れの床に這いつくばったまま、リュシアンは嘲笑うように血を吐き出し、憎悪に満ちた目をサフィールへと向けた。
どれほど厳しく冷徹な尋問を続けようとも、リュシアンは帝国の中枢に通じる裏切りの名簿や黒幕の正体を決して口にしようとはしなかった。誇りと意地にしがみついているのか、あるいは死の恐怖よりも口を割った後の報復を恐れているのか。
サフィールの美貌が、怒りと冷たさで一層凍りつく。
「……口だけは達者だな、リュシアン。その浅ましい意地がどこまで持つか、試してやろうか」
冷酷に言い放ち、サフィールが再び鉄の鞭を振り上げようとした瞬間、リュシアンはさらに声を荒らげ、エレを視線の先に捕らえると、血走った目をギラギラと輝かせた。
「ふん……! いい気になりやがって……! なあ、兄上⋯ お前、その隣にいる平民崩れの薄気味悪い異国人、どうやって飼い慣らしたんだ?ヒヒっ⋯ 綺麗な顔してるよなぁ⋯?どうせ寝所じゃ猫撫で声ですり寄って、兄上のお人形になって股を開いてんだろ?媚び売るだけのただの淫乱な雌犬が……っ!! ああ、気色悪い! 男同士で身体を重ねて何が――」
そのあまりに下劣で、聞き苦しい言葉を紡ぎ終える前に、サフィールの手が稲妻のような速さで伸び、リュシアンの首元を鋼鉄の握力で鷲掴みにした。
暗黒牢の空気を凍りつかせていた冷徹な静寂が、音を立てて砕け散る。
「……死ね、クズが」
サフィールの低く、地獄の底から這い出るような声が響いた。
怒りのあまり声のトーンが完全に消失し、尋問官としての理性が音を立てて剥がれ落ちる。サフィールの眼に宿っていたのは、任務のための冷たさではない。己の最も逆鱗に触れる存在を侮辱されたことに対する、殺意そのものだった。
「が、がはっ……!? ぁ、うっ……!」
メキメキと骨が軋む音と共に、リュシアンの息が途絶えかける。
殺してやりたい。今すぐその首を引きちぎって、二度と不浄な言葉を発せぬようにしてやりたい――その強烈な衝動がサフィールの全身を支配した。
だが――。
サフィールは理性の最後の糸で激昂をねじ伏せ、ギリギリのところで手を緩めた。
ぐったりと床に崩れ落ち、激しくむせ返りながら血の泡を吐くリュシアンを、サフィールは冷徹な眼下で見下ろす。窒息寸前まで追い詰められた恐怖で、リュシアンはもはや虫の息だった。
「……今日の尋問はここまでだ。これ以上、あの下劣な息をこの空間に満たすことすら吐き気がする」
サフィールは荒い息を整えながら、吐き捨てるように冷たく言い放つと、血と泥まみれの弟から冷ややかに視線を外した。
その様子を、エレは一歩も動かずにじっと見つめているいた。
エレは冷徹な眼差しのまま、足元のリュシアンを見下ろしていた。
かつて故郷ラディオンを蹂躙し、己の誇りと大切なものを奪っていった男の成れの果て。今のリュシアンからは一国の王族としての誇りも矜持も微塵も残っていない。ただ恐怖と憎悪にまみれ、喚き散らすだけの哀れな臆病者に成り下がっている。
(……これほどの苦痛と恐怖を与えられてなお、この男は自分が何を踏みにじってきたのかすら、微塵も理解していない)
エレの胸中にあるのは、同情でもなければ、溜飲が下がるような快感でもない。ただ、底知れぬ空虚さと、冷え切った確信だけだった。
サフィールはエレへと振り返ると、怒りで引き攣っていた表情をわずかに和らげ、低く声をかけた。
「……すまない、エレ。あのような下劣な虫けらの言葉を聞かせて……。戻ろう」
エレは静かにうなずき、その場からサフィールと共に引き上げていった。
重い鉄扉が閉ざされ、暗黒牢には再び不気味な静寂が戻った。




