第28話:破滅の足音
窓の外で降り続いていた冷たい雨が静かに上がり、雲の切れ間から差し込むかすかな月光が、離宮の秘匿室を淡く照らし出していた。
静寂が満ちる部屋で、ベッドの上に横たわっていたエレの長いまつ毛がかすかに揺れ、その深く澄んだ瞳がゆっくりと開かれた。
「……ん……」
「エレ様! お気づきになられましたか!」
傍らで甲斐甲斐しく付き添っていたレオンが、弾かれたように身を乗り出し、手際よく温かい薬湯を注いだ杯を差し出す。ガレノスもすぐさまエレの手首に指を当て、「ふむ、薬湯がきいておるな。熱も綺麗に引き、脈動も落ち着いております。もう安心です」と深く頷いた。
「レオン……ガレノス……世話をかけた」
まだかすかに掠れる声で感謝を口にするエレ。その視界の端に、部屋の隅で腕を組み、静かに佇む人影が映った。
「……サフィール殿下」
エレが身体を起こそうと身を固くした瞬間、サフィールは無意識に一歩前へ踏み出しかけ――そして、傍らに立つレオンの冷徹な視線を意識したようにピタリと足を止めた。自らの中に渦巻く強い情動を押し殺し、第一皇子としての矜持を保ちながら、少し離れた位置から深く息を吐き出す。
「無理に動くな、エレ。……要塞峡谷の敵は全滅した。シュタインの手塩にかけた暗躍も、完全に粉砕したぞ」
「そうですか……」
エレは短く応じると、ほんのわずかに肩の力を抜き、その澄んだ瞳に柔らかい安堵の光を宿した。派手に喜んだり笑ったりはしないものの、サフィールが無事で、己の策が実を結んだことに対する小さな、けれど確かな温もりがその表情に滲む。
「殿下ならば、見事に前線を束ねてくださると信じておりました」
その言葉と眼差しに含まれた静かな信頼に、サフィールは胸を突かれたように呼吸を詰めた。
自らの胸の奥で燻る複雑な感情――単なる優れた将兵への敬意や親愛を超えた、男であるはずのエレに向けられる割り切れない強い感情。サフィールは激しく胸を焦がしながらも、レオンに突きつけられた「噂」というリスクを思い出し、必死で自らの衝動を抑え込んだ。
「……お前が命をかけて仕掛けた罠のおかげだ。だが、もう無茶はしてくれるな。お前という男を失えば、我が軍の損失は計り知れん」
「は。肝に銘じます」
エレが小さく微かな微笑を浮かべると、サフィールは胸を突かれたようにわずかに視線を泳がせ、参謀レオンへ向き直った。
「レオン。エレの看病を引き続き頼む。……私は前線の本陣へ戻り、残された戦後処理の指揮を執る」
「はッ。畏まりました、サフィール殿下」
レオンが寸分の隙もない礼儀正しさで深々と一礼するのを見届け、サフィールは未練を断ち切るように漆黒のマントを翻して秘匿室を後にした。去り際の背中には、総大将としての冷徹さと、エレの威厳と立場を守るための苦い葛藤が色濃く滲んでいた。
一方、その頃――帝都・中央監察院。
深夜にもかかわらず、監察院の最奥に位置する執務室には、息が詰まるような緊張感が漂っていた。重厚なオークの机の上には、厳重に封印された箱が置かれている。
「……間違いございません。これは、第二皇子リュシアン殿下の花押と、敵国アルカディア国宰相の親書に間違いございません……!」
北方前線から極秘裏に届いた「暗闘の証拠」。拘束された副官シュタインの自白調書と共に提出された密約書を検分した監察長官の指は、恐怖と衝撃で震えていた。
最新式連発弩弓の横流し、鉱山採掘権の極秘譲渡契約――己が皇位に就くためならば、我が帝国の領土も人民も敵国へ売り払うという「外患誘致」の決定的な証拠。
「……皇帝陛下の実子であり、第ニ皇子たるお方が、国家を敵に売っていたとは……。直ちに皇帝陛下への極秘内奏の準備を進めよ! 露見を察知した第二皇子派の暴走に備え、禁衛隊長官へ極密裏に通達し、禁衛隊の全小隊に警戒態勢を敷かせよ!」
これまで宮廷で絶対的な優位を誇っていた第二皇子リュシアン派に対し、国家叛逆という逃げ場のない破滅への凄まじい逆風が吹き荒れ始めていた。
離宮で急速に体力を回復させるエレ、前線で全軍の統制を盤石にするサフィール、そして反逆の証拠を握られて追い詰められていくリュシアン。
すべての条件がそろい、反撃の舞台はいよいよ整ったのだった。




