第27話:総大将の帰還と参謀の釘
要塞峡谷に響き渡っていた激しい鉄と血の匂いが、ようやく風に洗われて消えていく。
エレが死力を尽くして配備した隠密の陣形と、サフィールが総大将として放った冷徹な指揮が見事に噛み合い、敵国アルカディアの侵攻本隊は峡谷の奥底で完全に包囲され、全滅した。前線の安全は、もはや揺るぎないものとなったのである。
「殿下! 残党の掃討並びに要塞拠点の確保、すべて完了いたしました! 北方第三軍、圧倒的大勝利にございます!」
返り血を浴びた巨漢の親衛隊長バルドが、武具を打ち鳴らして歓喜の声を上げる。しかし、軍馬の上に跨るサフィールの心は、すでにこの戦場にはなかった。
「……後方処理と本隊の再編はバルド、お前に任せる。シュタインの密約書と身柄は予定通り、厳重な警護のもと帝都の監察院へ極秘送致せよ」
「はッ!……しかし殿下、ご自身はどちらへ!?」
「離宮だ」
サフィールは短く言い捨てると、総大将としての重責から解放されたかのように馬首を返し、漆黒の駿馬に鋭い鞭を当てた。冷たい雨を切り裂き、ただ一人、エレの横たわる離宮へと怒涛の勢いで疾走していく。
自分はなぜ、これほどまでに焦っているのか。
エレは優れた将軍であり、かけがえのない戦友であり、己の野望を共にする右腕だ。……そう自分に言い聞かせながらも、彼が倒れたと聞いた瞬間に胸を襲ったあの凍りつくような恐怖の正体を、サフィール自身もまだうまく整理できずにいた。男であるはずのエレに向けられる、言葉にならない強い引き寄せ。それが何なのか確かめる間もなく、馬は離宮へと辿り着いていた。
その頃、離宮の秘匿室。
ガレノスが調合した薬湯とレオンの甲斐甲斐しい看病のおかげで、エレの熱は随分と下がり、浅い眠りの中で穏やかな寝息を立てていた。
そこへ、濡れたマントを大きく翻し、荒い息を吐きながらサフィールが猛然と部屋のドアを押し開けて踏み込んできた。
「エレ……ッ! 無事か!?」
周囲の警護や周囲の目もはばからず、サフィールは剣を帯びたままベッドの脇へ泥のついた膝をつき、寝入っているエレの頬へ震える手を伸ばそうとする。その瞳には、一国の第一皇子としての冷静さは微塵もなく、ただただ目の前の存在を確かめたいという焦燥が渦巻いていた。
――その手首が、すっと横から伸びてきた細い手によって固く遮られる。
「……そこまでです、サフィール殿下」
立ち塞がったのは、参謀レオンであった。
いつもの恭しい笑みを消し、冷徹とも言える澄んだ瞳で第一皇子を見つめている。
「な……離せ、レオン! エレの無事を確認させろ!」
苛立ちを露わにするサフィールに対し、レオンは一歩も引かず、むしろ声を低くして静かに、しかし逃げ場のない圧を込めて釘を刺した。
「殿下。エレ様はガレノス殿の処置と手厚い看病により峠を越し、現在は穏やかに眠っておられます。……ですが、殿下のそのあまりに過剰なご様子は、いかがなものでしょうか」
「……何だと?」
「忘れないでいただきたい。エレ様は帝国の誇り高き『将軍』であり、北方第三軍の絶対的な指揮官です。前線の戦後処理もそこそこに全軍の総大将が単身で疾走し、男の部下の寝所に立ち入って取り乱すなど……周囲の兵や潜む密偵にどう映るか、お分かりでしょうか?」
サフィールが息を呑む。レオンの言葉は容赦なく続いた。
「『サフィール殿下はエレ将軍に格別な情を寄せておられる』――そのような下劣な噂が帝都や軍内に広まれば、リュシアン派に格好の隙を与えるばかりか、エレ様の築いてきた将軍としての威信を泥で塗ることになります。……エレ様のお立場を本当に大切に思われるのなら、どうか第一皇子としての矜持と冷徹さをお保ちください」
参謀としての理路整然とした、そして核心を突いた一撃。
エレの臣下として、その威厳と立場を守ろうとするレオンの強い牽制に、サフィールは伸ばしかけた手をゆっくりと引き引っ込めた。歯を喰いしばり、深い葛藤の息を吐き出す。
「…相変わらず、容赦のない男だな、お前は」
「エレ様の参謀ですから」
レオンはすっと壁際へ下がり、いつもの礼儀正しい一礼を捧げた。
サフィールは熱の引いたエレの寝顔をじっと見つめ、乱れた呼吸を整える。
自らの中に渦巻くこの感情が、敬意なのか、執着なのか、それともそれ以上の何かなのか――男であるエレに対する自らの思いの正体に戸惑いながらも、「噂」によってエレの立場を脅かすわけにはいかないと悟り、サフィールは静かに立ち上がった。




