第3話 背中をあずけて
夜のヴァルカ平原は、吐く息が白く凍りつくほどの凄惨な寒気に包まれていた。
切り立った岩壁に挟まれた狭隘な谷間。エレ率いる第三軍団は、暗闇に紛れて死角を駆け抜けていた。
行軍の混乱に紛れ、隊列の死角となる岩陰。
あらかじめエレを「事故」に見せかけて始末しようと忍び寄ったのは、昼間の屈辱に腹を立てていた副団長バルドだった。
(あの細腕の青二才が……! 戦場に出てくりゃ落馬事故の一つや二つ、珍しくもねえんだよ!)
背後から無音で振り下ろされたバルドの極太の短剣。
だが、エレは振り向きもせず、身をひねる動作一つでその刃をかわした。次の瞬間、闇を切り裂いたエレの長剣の柄頭が、バルドの鳩尾みぞおちを強烈に穿つ。
「ぐ……はっ……!?」
膝を折ったバルドの首筋に、冷ややかな金属の感触。エレはいつの間にか彼の背後に回り込み、長剣の刃先をガルドの頚動脈にピタリと押し当てていた。
「これで二度、お前は死んだ。闇討ちをするなら、もっと呼吸を殺し、一撃で仕留める技を磨いてからにするんだな」
見下ろしてくるのは、前髪の隙間から覗く、凍てつく深海の青。
バルドの全身から嫌な汗が噴き出す。首元に当てられた剣からは、いつでも命を刈り取れる絶対的な死の気配が漂っていた。
「……殺せよ。上官を襲ったんだ、どっちみち俺は死刑だろ……!」
悔しさと恐怖で体を震わせながら、バルドが吐き捨てるように言う。
だが、エレは静かに剣を引いた。
「……殺さない」
「何……?」
「生きて武功を挙げ、この不始末を帳消しにしてみせろ。……死に場所なら、戦場の中にいくらでもある」
ガルドは目を見開いた。自分を殺すどころか、戦いで名誉挽回の機会を与えるというのか。
「……何故だ。俺はお前を殺そうとしたんだぞ!?」
「今の第三軍には、お前のような腕っぷしの強い男が必要だからだ。個人的な感情で貴重な戦力を失うわけにはいかない。だが次はないぞ。バルド」
エレは冷淡に言い捨てると、バルドに背を向けた。
「……っ!」
バルドは地面に拳を叩きつけ、屈辱と、それ以上にエレの将軍としての器の大きさに叩きのめされた。
部族連合は、帝国軍が当然選ぶであろう「走りやすい街道」に全主力を配置し、五千の伏兵による完璧な待ち伏せを仕掛けていた。この極小の谷間こそが、敵の警戒が最も薄い唯一の抜け道だったのだ。
「全軍、突撃――敵本陣を粉砕する!」
エレの低く冷たい号令と共に、第三軍団は谷を抜け、油断しきっていた部族連合の本陣へ背後から雪崩れ込んだ。
「な、なんだと!? 帝国軍がなぜ背後から――ギャアアアッ!?」
本陣の制圧は一瞬だった。しかしその直後、異変を察知した街道側の「敵主力五千」が激怒し、地鳴りを上げて本陣へと引き返してきた。
「報告! 街道に潜伏していた敵の主力、およそ五千! 本陣奪還のために引き返してきます!」
「五千の主力……!? 待て……もし俺の言う通り街道を進んでいたら……俺たちはあの伏兵に側面から揉み潰されて全滅していたのか……!?」
膝をガクガクと震わせるバルド。自分の愚かな主張が軍を全滅させかけた事実と、それを完璧に見抜いていた「華奢な青年将軍」の恐ろしいまでの先見の明に、二度目の、そして決定的な衝撃を受けた。
だが、驚愕に浸る猶予などなかった。本陣へ怒涛の勢いで押し寄せる敵主力。
その混乱の渦中、突如として地鳴りのような馬蹄音とともに、敵の側面を鮮やかに切り裂く一隊があった。
黄金の飾りが施された甲冑を纏うサフィールと、彼を死守するように陣形を組む帝国最高峰の精鋭親衛隊。その一騎当千の凄まじい剣技、圧倒的な突破力が、押し寄せる敵主力を一気に押し戻していく。
「動揺するな! 陣形を維持せよッ!」
夜の闇を打ち破る凛とした声に、エレは深海の青き瞳を限界まで見開いた。
「サフィール……皇子殿下……!?」
絶句するエレのすぐ側まで、サフィールは敵を薙ぎ払いながら馬を寄せてくる。
「助太刀するぞ、エレ将軍!」
「――何を考えておられるのですかッ!?」
エレは柄を握り直すと、怒りを露わにして叫んだ。一軍の将としての冷徹な仮面が破れかけるほどの衝撃だった。
「ここは一国の第一皇子が足を踏み入れていい場所ではありません! 前線の乱戦など、一歩間違えれば命を落とす泥沼だ! 御身に万一のことがあればどうされるつもりですか……! 冗談も大概程々にして、今すぐ本陣へお引き返しください!」
敵の第一皇子。祖国を奪った宿敵の息子。ここで彼が死ねば帝国は大混乱に陥る――そんな冷酷な計算すら吹き飛ぶほど、サフィールの無謀すぎる参戦に憤りを隠せなかった。
しかし、サフィールは襲いかかる敵の槍を豪快に弾き飛ばすと、不敵で爽やかな笑みを浮かべた。
「ハハ、冷たいことを言うな! 我が国の軍が危機と聞いて指をくわえて見ていられるか! それに……見事な戦術で敵の裏をかいた若き天才将軍の背中を、みすみす敵にさらさせるわけにはいないだろう」
サフィールは手綱を引き、エレの背後へと滑り込む。
「退けと言われて退くくらいなら、最初からこんな場所へは来ていない。 講釈は後だ、エレ!背中は私に預けろ!」
「……っ、貴方は……!」
呆れと激しい葛藤を噛み殺し、エレは背中に伝わるサフィールの熱量を感じながら長剣を一閃させた。
「……後で後悔しても知りませんよ、殿下!」
エレは胸の奥を突き刺すような奇妙な疼きを覚えながらも、即座に思考を切り替えた。
二騎の馬が並び、戦場を駆ける。
サフィールの剣は王宮仕込みの正統派でありながら、実戦では無駄が削ぎ落とされた一級品だった。そして何より、彼はエレの動きを完璧に予測しているかのように、彼女の死角を補い、道を切り開いた。
エレが敵の防御を崩し、サフィールが仕留める。
サフィールが複数の敵に囲まれれば、エレが電光石火の踏み込みでそれを蹴散らす。二人が並び立った瞬間、戦場の流れは完全に掌握された。そこに介入できる者など、誰一人としていなかった。
「全軍、突撃! サフィール殿下に続け!」
総大将自らの奮戦に、帝国兵たちの士気が爆発的に跳ね上がった。形勢は一気に逆転し、夜が明ける頃には、部族連合の軍勢は完全に敗走を始めていた。
背中と背中を合わせ、二人は凄惨な乱舞となって押し寄せる敵主力を潰し合っていった。
◇
戦いが終わり、血煙がくすぶるヴァルカ平原。
泥と敵の返り血に塗れたバルドは、力なく膝をつき、両手を地面についた。
暗殺の刃を呆気なくあしらわれた個の圧倒的な武。そして、軍を全滅から救い出した神がかった策謀。
もはやプライドなど微塵も残っていなかった。
「……エレ将軍……! 俺の命、あんたに預ける! 二度とあんたの判断に口答えはしねえ……っ!」
バルドの叫びに呼応するように、兵たちから地鳴りのような歓声が上がる。
二度の衝撃を経て、猛者揃いの第三軍は、名実ともに「若き青年将軍エレ」に心服したのだった。




