第2話 帝国第三軍、出陣
重々しい鉄の門が開くと、朝靄の立ち込める練兵場には、凄惨な殺気を孕んだ三千の兵が隙間なく居並んでいた。
帝国軍北方第三軍団。
北方境界線の防衛を担うこの部隊は、生粋の帝国軍人や手練れの荒くれ者たちが集う、軍内でも屈指の猛者揃いだった。
軍帽を深く被り、長剣の鞘を鳴らしながら台座へと登るエレの姿に、兵たちの視線が一斉に注がれる。
「……フン、相変わらずもやしみたいなガキだぜ」
最前列に並ぶ副団長バルドが、周囲に聞こえるか聞こえないかの音量で不躾に鼻を鳴らした。
バルドは二メートル近い巨躯を誇り、全身にいくつもの傷跡を残す生粋の叩き上げだ。前子爵の戦死に伴い、突如として上官に据えられた「小柄な青二才」であるエレの存在を、腹の底から忌々しく思っていた。
周囲の兵たちの中にも、どこか冷ややかな嘲笑を含んだ視線が交錯する。
華奢な体躯、白すぎる肌、そして性別を偽るためにあえて低くしているが男にしては高く静かな声。どれをとっても、力こそがすべての帝国軍においては舐められる要素でしかなかった。
エレはそんな侮蔑の視線など、最初から存在しないかのように平然と受け流していた。
(…見下すなら見下すがいい。好きに言っていろ。)
「将軍! 本日の行軍ルートについての最終確認を――」
副官のレオンが、羊皮紙の地図を抱えて慌ただしく駆け寄ってきた。彼は帝国の士官学校を優秀な成績で卒業した真面目な青年であり、最初はエレの配属に戸惑っていたものの、今では誰よりもその腕前に絶対の信頼を寄せている。
エレは腰の長剣にそっと手を置き、口を開いた。
「本日の行軍ルートを変更する。ヴァルカ平原への最短ルートをとり、北方の砦へ直行する」
「し、しかし将軍! そのルートは『黒血の谷』を通ることになります。あそこは道幅が狭く、伏兵の格好の標的ですが……!」
「だからこそ、だ」
エレは立ち止まり、冷たい深海の青を宿した瞳でレオンを静かに見つめた。
「敵も我が軍がそこを避けると思っている。だから逆を突く。伏兵がいるとすれば谷の出口だ。……そこは私が先頭に立ち、切り拓く」
「っ……! 承知いたしました!」
レオンはエレの射抜くような眼光に思わず息を呑み、力強く敬礼した。
しかし最前列のバルドが露骨に眉をひそめ、隊列を割って一歩前へ踏み出した。
「おいおい、将軍殿。黒血の谷間なんぞを抜けたら、部族連合の潜伏地帯に正面から突っ込むようなもんだぜ? 無難に遠回りの街道を行くのが軍学の鉄則だろうが。あんたみたいなお坊ちゃんには、あの谷の怖さがわからんのか?」
バルドの不敬な言葉に、兵たちの間に下劣なクスクス笑いが広がる。
バルドはニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、見下すようにエレの顔を覗き込んだ。
「それとも何か? 細いお御足で長距離を歩くのがお辛いのかな?」
エレの周囲の空気があっという間に氷点下まで下がる。誰もが息を止めて事態を見守る中、エレはすっと足を踏み出し、ガルドとの距離を詰めた。
その瞬間――。
サッ、と風を切る音すら遅れて届くほどの「閃光」が奔った。
「――ッ!?」
バルドの笑みが凍りつく。
次の瞬間には、エレの冷たい長剣の刃先が、バルドの太い喉首の皮膚にほんのわずかに食い込んでいた。一筋の赤い血が、バルドの首筋を静かに伝い落ちる。
バルドは目を見開き、金縛りに遭ったように動きを止めた。剣を抜く動作すら見えなかった。目の前に立つ「華奢な青年」の瞳には、感情の欠片もない「深海の青」が宿っている。
「……私の判断に異論があるなら、剣で示せ、バルド副団長」
エレの声は、どこまでも静かで、そして氷のように冷たかった。
「谷間を抜けるのは、街道沿いに張り巡らされた敵の偵察網を逆手に取り、最短で敵本陣の背後を突くためだ。遠回りをすればそれだけ補給資兵を浪費し、敵に迎撃の猶予を与える。……これ以上、私に初歩的な戦術の講義をさせないでいただきたい」
エレは冷酷に言い放つと、パッと剣を鞘へと戻した。
その無駄のない動作と、圧倒的な死の気配に、さっきまでクスクス笑っていた兵たちが一瞬で息を呑み、静まり返った。
「……滅相も、ございません……将軍」
ガルドが屈辱と敗北感を噛み殺しながら絞り出すように言うと、エレは静かに剣を鞘へと収めた。
「結構だ。これより出陣する。全軍、持ち場へつけ」
「「「はっ!!」」」
首筋の血を拭ったバルドは、顔を真っ赤にしながらも、エレの底知れぬ凄みに圧せられ、それ以上言葉を返すことができなかった。
(このガキ……ただのひよっこじゃねえ……っ!)
エレは兵たちを見渡し、軍帽の庇を指で軽く押し上げた。
三千の兵の地鳴りのような歓声が、朝靄を切り裂いて練兵場に響き渡る。
畏怖と服従。力で男たちをねじ伏せ、エレは完璧に第三軍団を掌握してみせた。
(よし……これで軍は動く。私を舐めてくれるなら、それも好都合だ。…せいぜい私の前で威勢よく踊ってみせるがいい。)
軍帽の影で、エレの青い瞳が冷たく光る。
偽りの性、偽りの瞳、そして冷徹な仮面。すべてを身に纏い、エレは自らが率いる大軍とともに、漆黒の戦場へと足を踏み出すのだった。




