第1話 緋の記憶、蒼の現在
連載版はじめました。
設定は緩めです。短編と多少変わっています。
読んでいただけたら嬉しいです
その痛みに慣れることは、十年間、ただの一度もなかった。
「……くっ」
エレは洗面台の縁を白くなるほど強く握りしめ、溢れそうになる悲鳴を歯列の奥で噛み殺した。
視界がまたたく間に熱を帯び、目元から頬へとしずくが伝い落ちる。それは涙ではなく、特殊な薬草の汁がもたらす拒絶反応の分泌液だった。
洗面台の水面に映る自分の顔を、エレは冷徹な目で見つめる。
波打つプラチナブロンドの髪は短く切りそろえられ、軍帽の中に押し込まれている。だが、問題はその下だった。
鏡の中の瞳は、今、禍々しいほどの鮮烈な「緋色」を放っていた。
大陸の南方に位置し、十年前までは豊穣の地と謳われた「ラディオン王国」。その王族だけが網膜に宿す、神聖なる血の証。太陽の光を浴びればルビーのように美しく輝くその色が、暗がりの中でぎらぎらと自己主張をしている。
「エレ将軍、間もなく定刻でございます。……お急ぎを」
背後の闇から、低く掠れた声が響いた。
部屋の隅に控えていたのは、背の曲がった老人だった。粗末な頭巾で顔を隠しているが、その手はひどく荒れ、独特の薬草の匂いを漂わせている。かつてラディオン王宮で御用薬師を務めていたガレノスだ。王国が滅びた際、奇跡的に生き延びた彼は、身分と性別を偽り「将軍」として生きるエレの唯一の理解者であり、影の協力者であった。
「わかっている、ガレノス。……持ってきてくれ」
「御意」
ガレノスが差し出したのは、精巧な玻璃の小瓶だった。中には濁った深海のような、毒々しいまでに深い青色の液体が揺れている。
エレはためらうことなく瓶の栓を抜き、その液体を自らの両眼に二滴ずつ落とした。
「――っ!」
凄まじい激痛が走る。眼球を熱した針で抉られるような感覚に、エレの身体が硬直した。呼吸が止まり、全身から嫌な汗が噴き出す。この薬は網膜の毛細血管を一時的に変質させ、瞳の色を文字通り「染め変える」禁忌の呪薬だ。肉体への負担は凄まじく、使い続ければいずれ失明するとガレノスからは警告されていた。
だが、そんなことはどうでもよかった。
痛みが引き、再び鏡を見上げた時、そこにいたのは「緋色の王女」ではなかった。
どこまでも冷徹で、感情を排した、ガルディニア帝国に相応しい、光を呑み込む深海の青を宿した青年将軍
――。
さらには薄手の長い晒しを胸元から腹部にかけて固く固く巻きつけ、女性特有の起伏を徹底的に押し潰す。長い飢えが削ぎ落とした身体は痛々しいほど細い。男にしては低く、女にしてはやや高い身の丈を、肩当てを忍ばせた重厚な軍服で包み込むことで、その華奢さは一変し、冷徹な男性軍人の佇まいへと変貌を遂げていた。
「……完璧だ。今日も私は、帝国の忠実な犬でいられる」
エレは自嘲気味に微笑み、洗面台の水のをすくって顔を洗った。
タオルの上から目元を押さえ、ゆっくりと深呼吸をする。目を閉じると、あの日々に至るまでの過酷な記憶が、濁流のように脳裏を駆け巡った。
十年前。ガルディニア帝国の侵攻によってラディオン王国はわずか三日で蹂躙され、王族はことごとく殺められた。
幼きルシフィードを逃がしてくれたのは、兄の妻であるメディトリナだった。メディトリナは、皮肉にもガルディニア帝国の名門貴族の令嬢であり、和平の証としてラディオンへ嫁いできた女性だった。政略結婚ではあったが、穏やかな優しい女性であり、兄との仲も良好であった。
祖国が夫の家族を虐殺する狂行を目の当たりにした彼女は、激しい炎の中、泣き叫ぶルシフィードの背中を押し、城の隠し通路へと逃がしたのだ。
『あなただけは逃げて、ルー。必ず生き延びなさい……!』
それが、義姉と交わした最後の言葉だった。
逃げ延びた直後の数年間、少女は名前を捨て、ただの「浮浪児」として生きた。
洗うこともないボサボサの前髪を深く垂らし、顔の上半部を完全に覆い隠すようにして街の片隅を彷徨った。人目に触れれば、その前髪の隙間から覗く「緋色の瞳」が命取りになるからだ。
泥に塗れ、ゴミをあさり、男か女かもわからない汚らわしい姿で蔑まれながらも、彼女は前髪の奥で、じっと耐えていた。死なないために。いつか帝国の喉元に刃を突き立てるその日まで、爪を研ぎ続けるために。
ガレノスと再会し、「蒼の呪薬」を手に入れてからは髪を短く切り落とした。性別を偽り青い瞳の仮面を被る。
やがて傭兵崩れの集団に拾われ、男たちに混ざって泥と血に塗れながら剣の振るい方を覚え、帝国軍の末端へ潜り込んだ。
そして実力と冷徹さで並み居る巨漢の男たちをねじ伏せて、弱冠二十代半ばにして帝国の「若き天才将軍」へと上り詰めたのだ。周囲の猛者たちは、彼女の小柄な身体を「華奢で冷酷な青年将軍」として畏怖していた。
「待っていて、メディトリナ義姉様。私は生き延びた。あなたを帝国の冷たい檻から救い出し、皇帝の首を獲る。そのためになら」
エレは腰に帯びた帝国制式の長剣の柄を強く握りしめ、軍帽を深く被り直した。
「将軍、第三軍、出撃の準備が整いました!」
部屋の外から、部下の緊張した報告が届く。
「すぐに行く」
エレは低く短く、男として偽った声で返し、一歩を踏み出す。
亡国の王女ルシフィードは姿を消し、冷徹な若き将軍エレとして、今日も仇敵の渦巻く戦場へと向かうのだった。
読んでいただき、ありがとうございます。
ブクマや感想、リアクション、評価をいただけると励みになります。よろしくお願いしますm(_ _)m




