第25話:網にかかる毒虫
冷たい雨が夜の闇を濡らす、北方第三軍の前線基地。
前線近くに急遽設けられた第一皇子の指揮幕営には、巨大な戦術地図と数十本の蝋燭が重々しく揺れていた。その中央で漆黒のマントを翻し、地図を見つめる皇子サフィールの立ち姿は、雨音すら圧倒するほどの冷烈な威圧感を放っていた。
「……サフィール殿下。北方本陣のシュタイン副官より、緊急通信が入りました」
側近として傍らに控える巨漢のバルドが、重々しい声で報告する。
「エレ将軍が危篤との報を受け、シュタインは兵糧庫と兵器庫の管理権を『非常時措置』として自身へ一元化。さらに、第一軍および第二皇子リュシアン殿下の陣営へ向け、極秘の伝令を発走させた模様です」
「……ついに尻尾を出したか」
サフィールは冷ややかな失笑を漏らした。
シュタインはエレが命を落としつつあると信じ込み、将軍不在の混乱に乗じて軍の全権を握り、リュシアン派へ手土産として差し出そうとしている。すべては、離宮のベッドで横たわるエレとレオンが思い描いた通りの足取りだった。
「バルド」
「はッ」
「本陣を取り囲んでいる我々の伏兵に合図を送れ。『密約の交わされる瞬間』を待って踏み込み、シュタインおよびリュシアン派の密使を、国家叛逆の現行犯で拘束する」
「承知いたしました!」
サフィールは深々と腰の剣の柄に手を当てた。
(エレ……お前が己の身を削って仕掛けた罠だ。一匹たりとも逃しはせん)
サフィールの胸の奥で燃え盛る激しい怒りは、エレを「使い捨ての盾」として嘲笑った奴らへの懲罰へと昇華していた。バルドに背中を守られながら指示を飛ばすその横顔には、冷徹な第一皇子としての絶対的な覇気が満ちていた。
同じ刻、北方第三軍・本陣執務室。
「ハハハ! できた……できたぞ! これで第三軍は私のもの、リュシアン殿下も私を重用せざるを得まい!」
シュタインは興奮で血走り、油汗の浮かんだ顔で『第三軍接収と全軍引き渡しの密約書』に最後の署名を走らせていた。目の前には、リュシアン派から派遣された密使が浅ましい笑みを浮かべて待機している。
「素晴らしい、シュタイン副官。エレなどという女のような小童にいつまでも頭を下げていた甲斐がありましたな。殿下もさぞお喜びになられます」
「フン、あの青二才め。サフィールを守る盾となって勝手に死んでくれたのだ、私にとっては最高の肥やしよ!」
シュタインが密約書を密使へ手渡そうと差し出した――まさにその瞬間。
バンッ……!!
執務室の重厚な木製扉が、暴風のような衝撃とともに打ち破られた。
「な、なんだッ!?」
シュタインが悲鳴を上げて跳びのく。暗闇からとなだれ込んできたのは、サフィール直属の精鋭憲兵隊と、前線基地から馬を飛ばしてきたバルド、そして――漆黒のマントを靡かせた第一皇子サフィールその人であった。
「――そこまでだ、シュタイン」
サフィールの低く響く声が、冷気となって室内に満ちる。
「ひっ……サ、サフィール殿下!? なぜここに……!?」
「北方軍副官シュタイン。並びに第二皇子派の密使。軍律違反、および帝国への国家叛逆罪の現行犯にて拘束する」
サフィールの合図とともに、バルドが巨躯を躍らせて密使を組み伏せ、手元から落ちた『密約書』を素早く拾い上げた。シュタインはガタガタと膝を震わせ、青ざめた顔で床に這いつくばる。
「ち、違う! これは誤解だ! 私は第三軍を、帝国を
守ろうと……!」
「黙れ」
サフィールは一歩踏み出し、冷徹な靴音を響かせてシュタインの目の前に立った。腰の剣をわずかに抜き、冷たい刃の輝きをシュタインの首元に突きつける。
「エレの忠義を、エレの命を……己の欲望の道具として踏みにじった罪、その首一つで贖えると思うな」
サフィールの瞳に宿る圧倒的な殺気と、静かなる激怒。シュタインはもはや声も出せず、自身の絶望的な敗北と失策を悟り、ただ震えることしかできなかった。




