第23話:仕掛けられた罠
帝都から遠く離れた北方第三軍の本陣。
降り注ぐ冷たい雨の中、執務室に籠もる副官シュタインの顔は、酷い油汗で湿っていた。
「……バカな……エレ将軍が大極殿に現れただと……!?」
手元に届いた暗号報告を握りつぶし、シュタインは激しい不快感に歯を剥き出しにした。
刺客の刃に倒れ、秘匿室で息を引き取るはずだった将軍。しかし、御前会議で第一皇子サフィールの傍らに立ち、黒幕のアルブレヒト子爵を死地に追いやったという報せは、シュタインの肝を冷やさせるに十分すぎた。
(しくじった……! アルブレヒトの奴め、サフィール殿下に証拠を握られて自滅したか……ッ! もしあの刺客から私の名まで割れていれば、次は私の首が飛ぶ……!)
爪を噛み、部屋の中をまわるシュタイン。だが、次に届いた離宮からの密告が、彼の死にかけた野心に再び火をつけた。
『――エレ将軍、拝謁直後に回廊にて吐血、再度の危篤状態。傷口の開きと毒の再燃により、離宮にて生死の境を彷徨う――』
「……フハッ! 虚張だったのだ……! あの女のように可憐な顔をした狐め、無理をして御前へ出おったな!」
シュタインの唇が浅ましく歪む。
将軍はすでに動けぬ死に体。アルブレヒトが死んだ今、第二皇子リュシアン派と直接つながり、この第三軍を完全に自分の手中に収める千載一遇の好機が残されているのだ。
「エレの命が尽きる前に……軍の主導権を奪う。将軍不在の混乱に乗じ、全軍をリュシアン殿下へ引き渡せば、私は一躍、第二皇子派の功臣だ……!」
焦りと功名心に眩んだシュタインは、自ら筆を取り、リュシアンへ向けた『第三軍接収の密約書』を走り書きし始めた。自身が仕掛けられた絶望的な罠の真っ只中にいるとも知らずに。
同じ刻、帝都・離宮の秘匿室。
重苦しい薬湯の匂いの中で、エレはシーツに深く身体を沈めていた。ガレノスによる繰り返しの処置により、どうにか激痛の波は収まりつつあったが、肌は陶器のように青白く透き通っている。
「……シュタインが、動きました」
ベッドの傍らで、レオンが静かに一通の書簡を提示した。
「本陣に放っている我が方の密偵より報告です。シュタイン副官は『将軍重体』の報に「好機到来」とばかりに動きを活性化させ、第三軍の兵糧と兵器の管理権を強引に自分へ一本化しようと画策しております。さらに、リュシアン殿下側へ密使を放った形跡も掴みました」
「……思った通りだな」
サフィールが冷徹な笑みを浮かべ、腕を組む。
「アルブレヒトという大きな後ろ楯を失い、自分の身を保つために完全に暴走を始めたか。エレ、君の命を賭した『芝居』が見事に毒虫を誘い出したぞ」
エレはゆっくりと瞼を開いた。その青い瞳には、病床にある者とは思えぬほど鋭く冷ややかな光が宿っていた。
「……シュタインは……昔から、己の器以上の野心に囚われやすい男でした。私が倒れたと知れば、必ず自分の天下が来たと誤認する……」
呼吸を整えながら、エレはレオンを見つめた。
「レオン……本陣の信頼できる将校だけに、極秘の『将軍直命』を打電してくれ。シュタインがリュシアン派と正式に契約を交わすその瞬間……第三軍の軍律違反および国家叛逆罪の現行犯として、一網打尽にします」
「はっ。すでに手配は完了しております。……エレ様、どうかこれ以上はお体に障ります、お静かに……」
レオンは甲斐甲斐しくエレの胸元まで毛布をかけ直し、その細い肩をそっと包み込むように指先を添えた。その瞳には、主への絶対の忠誠と、これ以上傷ついてほしくないという痛切な祈りが込められていた。
サフィールはそんな二人のやり取りを黙って見つめていたが、サフィールの胸の奥で、微かな不快感と、エレの儚い横顔から目を離せない焦燥感が芽生えていた。
(……私は何を苛立っている? )
サフィールは己の胸に渦巻く妙な胸騒ぎを打ち消すように、強く拳を握りしめた。
その時。
不意にノックの音が短く二回響いた。
レオンが音もなく歩み寄り、わずかに開いた隙間から、廊下に立つ密偵が差し出した濡れた暗号筒を静かに受け取る。
「ご苦労」
低く労いの言葉をかけ、レオンは秘匿室の奥へと向き直った。冷えた夜風が窓をかすかに揺らす中、手早く封を解き、受け取ったばかりの北方本陣からの裏暗号通信を検分した。




