第22話:蠢く悪意
夜が白み始めても、離宮の秘匿室を満たす重苦しい空気と濃密な薬湯の匂いは晴れることがなかった。
窓から差し込むかすかな朝靄の中、ベッドの上で上半身を横たえるエレの顔色は、病布のように青白い。血塗れの服を脱がされ、ガレノスの手で新たな晒を幾重にも強く巻き直された胸元は、呼吸をするたびに鋭い痛みを訴えていた。
報告に訪れたレオンが、低く絞り出すような声で口を開く。
「……アルブレヒト子爵が、絶命いたしました」
「……絶命、だと……?」
エレはかすれた声で反問し、痛む胸元を細い手で固く押さえた。
「はい。昨夜、大極殿での御前会議を終え、地下牢への移送途中のことです。表面上は『突発的な心臓麻痺』として処理されましたが……遺体を検分したガレノス先生の見立てでは、首筋に極小の針痕が残されていたとのこと。リュシアン派の手先による、即効性の猛毒を用いた口封じで間違いございません」
ベッドの傍らで一晩中不眠のままエレを見守っていたサフィールが、鼻で冷ややかに笑った。
「……フン、どこまでも蜥蜴の尾切りが得意な奴だ。都合が悪くなれば長年連れ添った側近すらゴミのように片付ける。アルブレヒトを切り捨て、これで一切の証拠を闇に葬ったつもりだろうが……リュシアンめ、浅はかな真似を」
サフィールの瞳には、昨夜エレの血で汚れた手を洗った時から消えない、凍てつくような殺気が宿っていた。愛用する正礼服の袖口には、拭いきれなかったエレの乾いた血の跡が微かに残っている。
「……ですが殿下」
エレは呼吸を整えながら、ゆっくりと身体を起こそうとした。すかさずレオンが歩み寄り、背中にいくつものクッションを丁寧に差し挟んでその華奢な身体を支える。レオンの指先がほんの少しだけ触れたエレの肌は、驚くほど冷たかった。
「……アルブレヒトが死んだことで、リュシアン殿下は『すべての暴挙は故人となった側近の独断であり、自分も被害者だ』と主張して逃げ切る構えでしょう。皇帝陛下も、これ以上の追及で宮廷が混乱することを望みません」
「……ああ、分かっている。奴を今すぐ引きずり下ろす決定打は、一旦失われた」
サフィールは悔しそうに拳を握り締め、床の石畳を強く踏みつけた。だが、すぐに第一皇子としての冷徹な面持ちを取り戻すと、ベッドの上のエレへ視線を戻す。
「だがエレ、リュシアンの手足はアルブレヒトだけではないはずだ。北方の第三軍……あの中に潜む『裏切り者』の存在を、奴はまだ諦めていない」
「……ええ。刺客の刃を裏で引いていた者が本陣にいる」
エレの澄んだ青い瞳に、暗く鋭い光が宿る。
「私が大極殿に姿を現し、刺客の件が失敗に終わったという報せは、間もなく北方の本陣へも届きます。ですが……私が帰路で再び倒れ、死の淵にあるという真実までは、奴らには判別できません。本陣に潜む内通者は、必ず焦りで動揺します。証拠を消すために接触を図るか、あるいはさらなる暴挙に出るか……」
「相手が焦りを深め、致命的な隙を晒すまで、じっくりと追い詰めましょう」
レオンが眼鏡のフレームを押し上げながら、冷徹な参謀の顔で言葉を重ねる。
「エレ様が『重体であり、離宮から一歩も動けない』という情報だけを厳選して北方に流し続けます。奴が我が軍の指揮権を奪おうと動き、自ら尻尾を出した瞬間こそ……息の根を止める時です」
「……頼むぞ、レオン。……ガレノス」
エレは静かに目を閉じ、体内で暴れる過酷な毒の残存と、縫合された傷口の熱に耐えるように深く息を吐き出した。
同じ刻――第一皇子派からの追及を鮮やかにかわした(と思っている)、第二皇子リュシアンの豪奢な執務室。
朝の光が差し込む室内で、リュシアンはワイングラスを傾けながら、デスクの上に届けられた一通の極秘通信を凝視していた。封蝋には、北方第三軍の副官のみが持つ特殊な刻印が押されている。
「……くくっ。アルブレヒトの豚が消えてせいせいしたと思っていたが……あやつが残した『芽』は、北方の地で実に香ばしく育っているようだな」
リュシアンの薄い唇が、愉悦に歪む。
手紙の主は、エレの不在に乗じて第三軍の全権を掌握しようと企む裏切り者。
エレが御前会議の後に再び倒れ、危篤状態に陥ったという噂を耳にし、恐怖と高揚と野心で正気を失いかけている男からの打診だった。
「サフィールよ……お前の大事な『盾』は、もうボロボロだ。離宮で死に体となった将軍など、何の役にも立たん。……さあ、北方から我が軍勢を送り込み、お前の足元を根こそぎ崩してやろう」
リュシアンは羊皮紙を燭台の炎で焼き捨てると、窓の外に広がる帝都の街並みを見下ろし、邪悪な嘲笑を漏らした。




