第18.5話:昏睡
「……熱が下がらん。傷口の毒をさらに絞り出すぞ」
離宮の秘匿室。薬の残香と血の匂いが重く立ち込める室内で、老薬師ガレノスの指先がかすかに震えていた。
ガレノスは薬箱から大小の解毒生薬と鋭いメスを取り出し、手際よく処置を進める。創部から黒く濁った悪血を慎重に抜き取り、特製の解毒膏薬を深く塗り重ねていく。
「レオン、エレ様の顎を支えい。煎じ薬を流し込むぞ。少しずつ喉奥へ滑り込ませるのじゃ」
「……はい」
レオンは息を殺し、震える手でエレの華奢な顎をそっと持ち上げた。
ガレノスが匙ですくった強力な解毒生薬を、苦痛に喘ぐエレの唇の隙間から慎重に流し込んでいく。
レオンは灯りをかざし、熱湯で絞った手ぬぐいでエレの額や首筋を滑る激しい汗を何度も拭い続けた。
晒を解かれた胸元は、男として生きるにはあまりに華奢で痛々しい。その肌が、毒の熱によって赤紫色の斑紋を浮かべ、激しい呼吸とともに痛々しく上下していた。
(持ちこたえてくれ……頼む、エレ様……!)
レオンは歯を食いしばり、手ぬぐいを握りしめる手に力を込めた。
◇
――それから、絶望のように長い日々が始まった。
ガレノスの献身的な処置と解毒生薬の投与にもかかわらず、刺客の毒はあまりに執拗だった。
エレの意識は深い昏睡の底へと沈んだまま戻らず、夜が訪れるたびに高熱が吹き荒れた。
「……あ……う……ッ、……逃げて……」
苦痛に顔を歪めたエレの口から、うわ言が漏れる。失われた故郷の情景か、あるいは血塗られた戦場の悪夢か。エレは小さな拳を固く握りしめ、浅い息を荒らげながら全身を震わせた。
そのたびにガレノスは夜を徹して解毒生薬の配合を変え、傷口の膏薬を塗り直し続けた。老齢のガレノスの顔からは日に日に血色が失われ、眼の周りには深い隈が刻まれていく。
補助として不眠不休でベッドの傍らに貼り付くレオンの疲弊も、すでに限界を超えていた。
指先は手ぬぐいを絞りすぎて血を滲ませ、頬は痩せこけて眼光だけが焦燥と執着で怪しくギラついていた。
「ガレノス先生……熱が、また上がって……! 呼吸が浅くなっています……!」
「動揺するな、レオン! 氷水を投ぜよ! 拭い続けるのじゃ!」
昼も夜も判別のつかない暗室の中で、命の灯火を繋ぎ止めるための泥沼の闘いが続いた。
部屋に満ちるのは、死の気配と、薬の匂いと、二人の男の極限状態の荒い息遣いのみ。
七日目の夜更け。ろうそくの芯が爆ぜ、小さく揺れた。
部屋を支配していた荒々しい喘ぎ声が、ふっと途絶えた。
ガレノスとレオンが同時に息を呑み、ベッドへ視線を走らせる。
エレの胸の上下が静まり、肌に浮き出ていた禍々しい紫色のうっ血が、薄らいでいる。
そして――繊細な睫毛が微かに震え、ゆっくりと持ち上がった。
だが、その瞳には焦点が合わず、光を弾くように虚ろに天井の一点を見つめているだけだった。
「……エレ……様……?」
レオンの声が、かすれて破れた。
エレの乾ききった唇が微かに掠れ、引きつるように動く。
「……っ……、……ぁ……」
声にならない掠れた息が漏れるだけで、言葉にはならない。一週間高熱に晒され続けた喉は焼けたように干からび、指先一つ動かすことすら叶わない状態だった。
ただ、その瞳にわずかな意識の芽生えが見えただけだった。
「エレ様⋯!まだお声を出そうとしてはなりません」
ガレノスは湿らせた布をエレの乾いた唇にそっと当てた。
「毒の波は去ったが、体力は底をついておる。……生きているのが奇跡という状態じゃ」
エレは喉を絞り出すように小さく喘ぎ、痛みに耐えるように一度固く目を閉じた。そして、ゆっくりと再び瞼を開けると、ボロボロの姿でエレを見下ろすレオンの顔を、茫然と見つめた。
その姿を見た瞬間、一週間、途切れることなくレオンの胸を押し潰し続けていた恐怖と緊張が完全に弾け飛んだ。
「エレ様……っ、……よかった……っ!!」
レオンはその場に崩れ落ちるように膝を突き、床に拳を叩きつけてボロボロと声を上げて泣き伏した。指先は手ぬぐいの絞りすぎで血が滲み、眼の周りは激しい不眠で真っ黒に腫れ上がっていたが、主君の命が繋ぎ止められた歓喜に身を震わせた。
エレは声も出せないまま、涙を流すレオンを虚ろな視線で見つめ、かすかに……本当に微かに、安堵するように睫毛を伏せるのだった。




