第18話:激昂、執念
「おい、レオン! ガレノス先生を連れてきたぞ!」
バルドの低い声とともに、濡れ鼠のようになった老薬師ガレノスが、身を低くして部屋の中へと滑り込んできた。城下の旅籠で待機していたガレノスは、バルドから事態を聞かされるや否や、秘伝の薬箱を担いで宮廷の厳重な警備網を破ってきたのだ。
「レオン、エレ様のご様子は……!?」
「ガレノス様、エレ様をお救いください……っ!」
「言われるまでもない! エレ様を死なせるわけにいかぬ!」
ガレノスは急ぎベッドへと歩み寄り、血に染まった晒と傷口を目にするや、即座に息を呑んだ。
「……なるほど、晒が刃の深部到達を殺したか。だが、塗られていたのは『漆黒の蔓』の毒だな。臓器への達傷はなくとも、毒が血を焼き尽くせば明朝までもたんぞ!」
ガレノスは手際よく薬箱を開き、自ら持ち込んだ調合生薬と刃物を取り出した。
「レオン、灯りを近くへ引け! バルドは扉の前で誰一人寄せるな!」
「へいっ!」
ガレノスの鋭い指示のもと、レオンは震える手を押し殺して薬の調合を手伝った。
ガレノスが手際よく創部から腐食した血を抜き取り、自作の強力な解毒生薬を塗り込んでいく。毒の熱に苦しむエレの汗を、レオンは何度も何度も手ぬぐいで拭い去った。
晒の下に隠された、あまりにも痛々しく華奢な身体。
ガレノスが皺の刻まれた顔をさらに深め、静かに呟く。
「……わしも、このお方がどれほど無茶な生き方をしてきたかは知っておる。この重荷を背負い、北方で男どもを率いるのがどれほどの地獄だったか……。レオン、お前も覚悟を決めろ。エレ様の命も、この秘密も、お前の肩にかかっているのだからな」
「……分かっております、ガレノス先生」
レオンは固く拳を握りしめ、ベッドで浅い息を繰り返すエレの顔を見つめた。
「俺は、エレ様に従うと決めました。男だろうが女だろうが関係ない……エレ様こそが、俺の唯一の主君です!」
「⋯そうか⋯」
熱にうなされるエレの口から、途切れ途切れの苦悶の息が漏れる。汗に濡れた前髪が額にへばりつき、白い肌は火のように火照っていた。
ベッドの傍らに腰掛けたレオンは、冷水に浸した手巾を固く絞ると、呼吸の乱れに合わせてエレの額へとそっと載せた。
「……エレ様。大丈夫です、俺がついております」
普段の冷徹な側近の顔から、微かに滲み出る深い労わりと忠誠。
(他者を誰も入れるな……お前だけで私を手当てしろ……)
あの絶体絶命の瞬間、エレが自分だけに託した命懸けの密命。
自分がエレの「秘密」を守る最後の砦であり、唯一の盾なのだという事実が、レオンの胸の奥で静かな誓いとなって深く刻み込まれていた。
ガレノスは痛々しいエレの姿を見つめ、静かに膝をついた。
「エレ様……どうかお赦しください。お側におりながら、このようなお怪我を負わせてしまうとは……。わしの命に代えても、お守りします」
いまだ意識の戻らぬエレの瞳を開き、青の呪薬を鮮烈な「緋色」に落とした。
◇
一方その頃――大広間に隣接する地下の冷たい石造りの拷問室。
湿った空気の中、鎖のきしむ音と肉を叩く重い音が不気味に響いていた。
刺客の男は鉄の枷で吊るされ、全身血まみれになりながらも、口内に潜ませていた毒針で自ら舌を深く傷つけ、一切の証言を拒んでいた。
「……黙秘か。実にくだらん忠誠心だな」
拷問室の暗がりに、冷ややかな声が落ちた。
そこには、普段の温厚で優雅な笑みを跡形もなく消し去った第一皇子サフィールの姿があった。豪奢な正礼服の袖を雑にまくりあげ、その双眸には凄惨な怒りと漆黒の殺意が揺らめいている。
「殿下、これ以上は口を割る前に死んでしまいます――」
怯える叩き上げの刑吏の手から、サフィールは黙って細身の鞭を奪い取った。
「死ぬ? 私の許可なく死ねると思うか?」
サフィールは静かに歩み寄ると、刺客の髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。手元にあった上質なワイングラスを床へ投げつけると、パリンと激しい音を立てて砕け散る。サフィールはその破片の一つを拾い上げ、刺客の目元にゆっくりと突きつけた。
「エレが私の身代わりとなってあの毒刃を受けたのだ。……私の盾となってな。それを企てた愚か者どもを、私がただで死なせると思うか?」
「……ぐ……ぁ……っ」
「爪を剥げ。指を一本ずつ折れ。舌が使えぬなら手足の骨を砕いて叩き起こせ。吐き出す言葉がなくなったなら、首謀者の名を羊皮紙に書かせろ。……どんな手を使ってもだ」
サフィールの声には、一切の情け容赦がなかった。
かつて誰も見たことのない「氷の暴君」と化した皇子の怒りに、部屋にいる近衛兵たちすら恐怖で背筋を凍らせる。
遠くの別室で密かに事態の推移を探らせていた第二皇子リュシアンは、手下がギリギリのところで口を割っていない報告を受けつつも、サフィールの底知れぬ激怒ぶりに顔を蒼白にし、冷や汗を拭い続けていた。




