第16話:闇の刃
「……エレ様。室内、ならびに調度品に異常は見当たりません」
検毒針を丁寧に懐へ収めたレオンが、静かな声で報告した。窓際の暗がりからバルドも戻り、険しい顔で首を横に振る。
「外の庇も見てきたが、人の潜んだ形跡はねえな。本当になんの仕掛けもねえぞ」
一見すれば、拍子抜けのような結果だった。しかし、エレの胸の奥でくすぶる違和感は消えるどころか、冷たい悪寒となって背筋を駆け上がっていた。
――奴らの狙い。あの分かり易すぎる挑発。そして、サフィール殿下へとなぜか都合よく漏れていた情報。
陰湿で狡猾な宮廷の暗闘において、これほど親切で隙だらけの「罠」が存在するだろうか。
サフィールは「エレの控室に怪しい給仕が入った」と言っていた。だが、もしそれがエレをこの会場から遠ざけ、警戒を部屋へ集中させるための陽動だったとしたら。
(私をここに釘付けにし、大広間から遠ざけることが目的……だとしたら、真の狙いは……!)
エレの思考が氷のように澄み渡り、即座に一つの答えに辿り着いた。
「二人とも、大広間へ戻るぞ!」
「えっ……エレ様!?」
「一刻を争う! サフィール殿下が危ない!」
エレは正礼服の裾を翻し、重厚な扉を押し開けると、廊下を疾風のごとく駆け戻った。背後でレオンとバルドが息を呑み、慌てて後を追う足音を含ませていく。
大広間の重厚な両開き扉を押し開けた瞬間、煌びやかな光と楽団の弦楽、そして貴族たちの談笑の渦が視界に飛び込んできた。
エレの鋭い眼光が大広間を疾走する。
広間の中央、豪奢な水晶の燭台の下で、第一皇子サフィールが取り巻きの貴族たちと優雅にワイングラスを傾けていた。その背後――サフィールの死角から静かな歩調で歩み寄る、一人の給仕服の男。
男の手元、銀のトレイの陰で、燭台の光を反射して鈍く青黒い光を放つ短剣の刃が見えた。
(――毒を塗った短剣……!)
「サフィール殿下!!」
エレの声は大広間の音楽と喧騒を切り裂いた。
サフィールが驚愕に振り返るのと、刺客の男が給仕の笑みを捨てて刃を突き出すのは完全に同時だった。
間一髪、サフィールの体を押しのける猶予はない。エレは躊躇することなくその身を滑り込ませ、サフィールの背中をかばうように立ちはだかった。
――ズブ、と肉を割く重く鈍い感触。
「ぐぅっ……!」
エレの左腹部に、毒塗りの短剣が深く突き刺さる。
灼熱の痛みが神経を駆け抜け、視界が真っ白に染まった。
「エレ―――ッ!?」
耳を破らんばかりの叫びとともに、サフィールは崩れ落ちるエレの体を抱きとめた。
「エレ!エレ!⋯しっかりしろ!エレ!」
腕の中で一瞬にして血に染まっていくエレの姿に、サフィールの顔から血の気が引く。
「その男を捕らえろ!」
刺客の男は即座に腰に差した刃を抜き取ると、自決を図ろうとしたが、追いついたバルドがその顎を叩き割り、床へ激しく叩きつけた。
「させるかよッ! 歯を食いしばらせろ、生かして吐かせる!!」
大広間は壮絶な悲鳴と怒号が渦巻く極限の混乱へと陥った。逃げ惑う貴族たちの足音とグラスの破片が床を覆う。
「近衛!! 門を完全に封鎖せよ! 蚊一匹通すな!!」
ぐったりと動かないエレを抱き、血に濡れたサフィールの見たこともない凄惨な激怒の叫びが大広間を震わせた。
刺客を捕縛し、宮廷全体を完璧に封鎖する冷徹な指示を言い渡すと、サフィールは駆け寄ってきたレオンへ、万感の想いを込めてエレの体を託した。
「レオン! エレを頼む……っ!」
「ハッ……!」
サフィールから慎重に受け取られ、レオンの腕の中に抱かれたエレ。
劇薬が体内の血を焼き尽くし、手足の感覚が急速に遠のいていく中、エレは残された全腕力でレオンの肩を強く掴み、血の混ざった激しい息の下で途切れ途切れに命じた。
「レオン……私を……離宮の部屋へ……」
「エレ様……っ!」
「他者を……誰も、入れるな……。お前だけで……私を……手当てしてくれ……。……城下の……ガレノスを……呼べ……」
「……エレ様⋯!御意に、ございます……!」
言い終えた瞬間、エレの手からスッと力が抜け、視界は完全な闇へと沈んでいった。




