第8話 母の熱い手
スラムの子供たちの治療を終え、私は泥を拭う暇もなくお母様の元へ向かう。
薄暗い寝室の扉を開けた瞬間、部屋に充満する「熱」の重さに息が詰まった。ベッドに横たわるお母様は、汗で髪を顔に張り付かせ、焼き切れるような苦しさの中で浅い呼吸を繰り返している。
その痛々しい姿に、私はぶるりと肩を震わせた。背中に氷水を流し込まれたような冷たさが走り、視界が滲みそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。
「お母様……」
私は、お母様の燃えるように熱い手を両手で包み込み、渾身の祈りを捧げた。
手のひらを通じて、私の清涼な魔力が流れ込んでいく。すると、お母様の肌からじわりと溢れ出していた毒々しい黒い靄が押し出され、私の光に触れては霧散していった。
「お嬢様……どうか、分解できる分だけに留めてください。これ以上は貴女の身が持ちませんぞ」
傍らで見守っていたジイの、悲痛な声。
「ええ、分かっているわ。……でも、少しでもこの熱を下げてあげたいの」
お母様が請け負った「熱傷病」は、あまりに巨大で禍々しい。今の私では、そのすべてを一度に剥がし取ることはできなかった。
私ができるのは、お母様の体から溢れ出そうになる「病の欠片」を、外側から少しずつ浄化していくことだけ。
「恐らく、お嬢様はエレオノーラ様と血が繋がっているからこそ、これほど深く干渉できるのでしょう。……普通の剥離師では、この『熱』に触れただけでその魂を焼き切られてしまうはずです」
「このやり方で浄化していくなら、無理はできないわね。……ジイ、まさかお母様、私が無茶をしないように、自分から病を剥がさせないようにしているなんてことは、……ないわよね?」
「それは……考えすぎでしょうな。いくらエレオノーラ様でも、今はその全魔力を病の分解だけに注ぎ込んでいるはず。そうでなければ、とうの昔にその身が焼き尽くされています。意識を取り戻せないのは、それほどまでにこの病が凄絶だからなのです」
「そう……そうよね。お母様が全力で戦っていても、数ヶ月は戻ってこられないほど……。本当に、恐ろしい病だわ」
私は、もどかしいほどの微々たる浄化を終え、そっと手を離した。
今日はここまでだ。
私は立ち上がり、冷えた体を温めるためにパンを切り、スープを温めることにした。
「ジイも食べていくでしょう? 私の自信作なのよ」
「……ありがとうございます、お嬢様。私めもお手伝いを――」
「いいの。狭いキッチンで二人で動くのは効率が悪いでしょ? 私は準備をするから、ジイはお母様の側で見守っていてちょうだい」
私は黙々と、一人分の物音だけが響くだけのキッチンに立つ。
立ち上る湯気の向こう、お母様の優しい声も、鼻歌も聞こえてこない静寂に、胸の奥がキリリと痛む。
まだ始まったばかりの、けれど途方もなく長く感じる二人きりの生活。その寂しさを振り払うように、私はスープを皿に注いだ。私の孤独を察しているからこそ、ジイは夕食が終わるまでずっと、この小さな治療院に居てくれるのだ。その不器用な優しさに感謝しながら、私はスープを口に運ぶ。味は悪くない。けれど、少しだけ、しょっぱく感じた。
★★★
特訓と、お母様の治療。そんなモノクロのような毎日が一ヶ月ほど過ぎた頃、アルフォンスがこっそりと差し入れを届けてくれた。
十歳の男の子の成長は、信じられないほど早い。わずか数ヶ月で見違えるほどに背が伸びた彼を見て、私は驚きの声を上げた。
「アル……少し見ないうちに、かなり大きくなったわね? 差し入れもありがとう。本当に助かるわ」
「ああ、気にしないで。これくらいしかできなくて、もどかしいほどだよ。……それで、叔母様は」
アルの視線が、奥の寝室へと向けられる。そして、そこに流れる重い沈黙を感じ取ったのか、彼はすぐに辛そうに顔を歪めた。
「ええ……お母様が、例の病を『請け負った』の。一ヶ月ほど前のことよ」
「そうか……。あの噂の病を、叔母様が……」
「大丈夫よ、アル。お母様と私、二人で力を合わせれば、必ずこの病に打ち勝ってみせるわ。だから、そんな顔しないで?」
私は精一杯の笑顔を作り、誇らしく胸を張った。
それを見たアルは、くしゃりと、泣き笑いのような何とも言えない表情で私に近づくと、弾かれたように私を抱きしめた。
「レティ……っ! ああ、分かっている。君ならきっと、不可能さえも覆すだろうね。……でも、絶対に無理だけはしないと約束してくれ。君まで倒れたら、僕は……僕は本当に、心配で夜も眠れなくなる」
背中に回された彼の腕は、以前よりもずっと力強く、その体温は頼もしいほどに熱かった。
「ふふ、分かったわ。絶対に無茶はしないって、貴方に約束する。だから、安心して?」
「……約束だよ。僕は君を信じている。叔母様が病に打ち勝ち、再び笑顔を見せてくれる日を、心から信じているから」
「ええ。ありがとう、アル」
久しぶりに感じる、誰かの温かな体温。その優しさに触れた瞬間、張り詰めていた心の堤防が少しだけ緩み、熱いものが込み上げそうになる。
アルは、私の瞳が潤むのを見抜いていたのだろう。彼はあえて何も言わず、飴がぎっしり詰まった袋を、照れ隠しのように私の手に押し付けた。
「これは、スラムの子供たちと分けて食べてくれ。……僕はそろそろ失礼するよ。また、必ず来るから」
「ええ、ありがとう、アル。貴方も、元気でね」
「レティもね。――また」
立ち去り際、ふわっと大人びた笑顔を見せた彼の背中を、私は見送った。
彼もまた、私に負けないように、自分の場所で戦っているのだ。
私も、ここで立ち止まってはいられない。
――私は飴の袋をぎゅっと抱きしめ、お母様を救い出すための気合を、改めて胸に灯し直した。




