第6話 決意
スラム街の片隅に佇む小さな治療院。意識を失ったままのお母様を、私たちはそこへ運び込んだ。案内してきた役人には、ジイがスラムの医師であり、ここが私たちの奉仕活動の拠点なのだと手短に説明する。
早くこの場を立ち去り、母の元へ行きたい一心だったが、小太りの――横に大きな方の役人が、鼻で笑いながら小さな革袋を差し出してきた。
「これは今回の謝礼金だ。……スラムの女子供には過ぎた額だが、ありがたく受け取るがいい」
その傲慢な物言いに、睨みつけたい衝動を必死に抑え込む。こめかみが怒りでピクピクと跳ねるのを感じながら、私は顔に冷ややかな微笑を貼り付かせた。
「……痛み入ります。大切に使わせていただきますわ」
受け取った袋は、手のひらに乗るほど小さく、驚くほど軽い。触れただけで、中身が王太子の命を救った代償としてはあまりに端金であることが分かった。
お母様ならきっと、「お金のために助けたのではありません」と微笑んで、この男の無礼も、その背後にある不条理さえも許してしまうだろう。けれど、私は違う。この安っぽい革袋は、お母様が命を懸けて捧げた尊厳を、泥で汚しているのと同じだ。
役人が去り、重い扉が閉まった瞬間、ジイがそっと私の頭を撫でてくれた。
「よく耐えなさいました。……本当によく、ご立派に振る舞われましたよ、お嬢様」
「……ええ。でも、お母様の誇りをあんな風に踏みにじられるのは、二度と御免だわ」
「同感です。ですが、今はまだ牙を剥く時ではありません。……分かっておいでですね?」
「分かっているわ。……お母様は、すぐには目覚めない。ジイ、明日の昼にまた来てちょうだい。今夜は私が付き添うわ」
「承知いたしました。……それでは、おやすみなさいませ」
ジイは私とお母様に向かって、一介の医師としてではなく、アストレアの臣としての深い敬礼を捧げ、闇に消えていった。
静まり返った部屋。私はお母様が横たわるベッドの脇にうずくまり、その熱く汗ばんだ手を握りしめた。命を削るような熱が、私の手のひらにもじりじりと伝わってくる。理屈では分かっているのに、心が激しい拒絶に悲鳴を上げている。あの役人への、そしてお母様をこんな目に遭わせた世界への怒りが、熱い涙となって溢れ出し、私は声を殺して泣き続けた。
★★★
翌日の昼。訪ねてきたジイは、私の目が真っ赤に腫れていることに気づいたようだったが、何も言わずにいてくれた。朝方から冷やした甲斐もなく、私の弱さは隠しきれていなかったのだ。
私はお母様の手を包み込み、ただひたすらに祈りを捧げていた。熱傷病の毒素は、お母様の体を内側から焼き続けている。おそらく、三か月は昏睡が続くだろう。その間、私とジイで細い管から水分を入れ、着替えさせ、衰えていく肉体を繋ぎ止めなければならない。
(せめて、この『熱』を少しでも取り除けたら……)
祈りに没頭していた私は、ふと自分を見つめるジイの視線に気づいた。ちらりと顔を上げると、ジイはまるで「あり得ない奇跡」を目の当たりにしたかのような、驚愕の顔つきで私を凝視していた。
「え……? 何よ、ジイ。その顔、怖いわよ」
「も、申し訳ありません……。そ、その……お嬢様……」
「何よ、はっきり言って。涎の跡でもついていたかしら?」
動揺を隠すように袖で口元を拭うと、ジイは震える溜息をつき、私の隣に腰を下ろした。
「レティシアお嬢様……。貴女は、アストレア公爵家に伝わる『真の奇跡』をご存知ですか?」
「ご先祖様が流行り病から王家を救ったっていう、あのお伽噺かしら?」
「左様です。ですが、その話には、公爵家にしか伝わらぬ続きがあるのです」
「……続き?」
「アストレアの血を引く者は、請け負った病を分解する速度が常人とは桁外れに早い。ですが、稀に……さらにその先を行く者が現れる。レティシアお嬢様、もう一度お母様の手を握り、目を開けたまま、強く『祈って』いただけますか?」
「ええ、分かったわ」
ジイの必死さに気圧され、私はお母様の白い手を見つめながら、全身の神経を指先に集中させた。
(早く目を覚まして。この熱を消して、元気になって!)
強く願った瞬間――視界が、キラリと清浄な光に満たされた。
そして、お母様の肌を覆っていた禍々しい『黒い靄』が、私の光に触れた端から、雪が解けるように消え去っていくのが見えた。
「――っ! お嬢様、見えましたか? これこそが『伝説の治療師』の御力……病を体内に取り込むことなく、外部から直接打ち砕く、浄化の理です!」
「まさか……病を『請け負ってから分解する』んじゃなくて、『吸い出した先から消せる』っていうの?」
「その通りです。この力は、この国のみならず、世界中の権力者が喉から手が出るほど欲しがる禁忌の力。本来、跡継ぎの公爵しか知り得ぬ秘事……。絶対に、公にしてはなりませんぞ」
「お母様は、ご存じだったのね……」
「はい。貴女が幼い頃、アルフォンス様を救ったあの日、貴女は無意識に病そのものを『消滅』させた。お祖父様が貴女に毎回『報告』を求めていたのは、貴女がその力に目覚める時を待っていたからなのです」
ジイの声が、震えている。彼は私の中に、単なる公爵令嬢ではなく、この国の不条理を塗り替える『光』を見たのだ。
「レティシアお嬢様……貴女は賢く、そして誰よりも気高い。敢えて申し上げます。次期公爵は、貴女以外にあり得ません。貴女は、王族よりも、誰よりも尊い御方なのですぞ……!」
「……ジイ。私は、命に尊いとか卑しいとか、順位をつけるのは嫌いよ。でも――」
私はお母様の顔を見つめ、静かに立ち上がった。
「私にしかできないことがあるのなら、『アストレアの貴族として』、その仕事を完璧にこなしてみせるわ」
「本当……に……立派なレディになられましたなあ……っ」
枯れた目から温かな涙を流すジイ。私はその皺だらけの手を握り、決然と告げる。
「お母様には、大人になるまでは使うなと言われていたけれど……。お母様の命を救うのに、大人になるのを待ってはいられないわ。……ジイ、今の私では、まだ力が足りないわね?」
「……はい。現状では、ほんの一欠片を散らすのが限界でしょう」
「分かっているわ。だから――特訓するわよ。ジイ、私にすべてを叩き込んで。お母様が目を覚ました時、最高の笑顔で迎えられるように」
こうして私は、ジイの指導のもと、スラムの子供たちを相手に実地訓練を始めた。
『吸い出し』、そして『散らす』。
今はまだ、吹けば飛ぶような小さな光かもしれない。けれど、いつか必ず、この手でお母様を、そして私たちの運命を覆い尽くす闇を、すべて払い除けてみせる。
――私は、昏睡し続けるお母様の頬を優しく撫で、固い誓いを胸に刻んだ。




