第5話 王太子の病
アルフォンスが貴重な情報を持ってきてから三日後。噂は、残酷なほどの真実味を帯びてスラムに降り立ってきた。
二人の役人が、場違いなほど豪奢な装いで、澱んだ空気のスラムへとやってきたのだ。
「王族の病を『請け負って』くれる殊勝な者を探している。これに選ばれることは、一生の誉れであるぞ」
横柄に、まるで施しでもするかのように説明する役人に、お母様が静かに歩み寄った。
「お聞きいたします。……どのような病なのでしょうか」
「スラムの者には説明しても理解できまいが……病名は『熱傷病』だ」
「熱傷病……っ! なんてこと。罹ってからどれほど経つのですか? あの病は、大人であっても二年とは持たぬはず」
お母様の鋭い指摘に、役人たちは一瞬気圧されたように言葉を詰まらせ、それから忌々しげに続けた。
「……その通りだ。体力のない高貴なお方が罹ってしまい、残された時間はあと二か月程度だろう」
もう一人の役人が頷き、答える。お母様は何かを深く思案するように目を伏せたが、すぐに私の方を向き、いつものように優しく、けれどこれまでにないほど強く私の頭を撫でてくれた。
「ルイージ、おじいちゃん先生を呼んできてもらえますか?」
傍らにいたルイージにお母様が声をかける。ルイージは今にも泣き出しそうな顔で、お母様を見つめた。
「……聖母様、本気なんですか? レティ姉ちゃんが一人になっちまうんだぞ……っ」
「――ルイージ。これからも、レティと仲良くしてあげてね」
彼の言葉を優しく、けれど拒絶を許さない響きで遮り、お母様は微笑んだ。その微笑みの意味を悟ったルイージは、溢れる涙を袖で拭いながら、ジイの元へと走り去った。
「レティシア。あなたは、その瞳で、最後まですべてを焼き付けておくのですよ」
「……はい、お母様」
母なら『請け負う』以外の選択肢は選ばない。アルから話を聞いた時点で、私はその覚悟を決めていた。そして、これが愛する母との最後の会話になる可能性さえも、心のどこかで理解していた。
貴族の誇り――それは、王族の盾となり、礎となることを至上の幸福とする価値観でもある。
かつてはお伽噺のようにしか聞こえなかったその言葉が、今、スラムで泥にまみれて生きているからこそ、重く、切実に響く。王家の安寧が揺らげば、この国の底辺で生きる者たちから真っ先に、生きる術を奪われるのだから。
やがて、ジイを連れたルイージが戻ってきた。お母様が視線を送ると、ジイはすべてを察したように恭しく頭を下げた。
「お役人様。その病、わたくしが請け負います。……条件として、娘と、その保護者であるこの老人を同行させる許可をいただきたい」
役人たちは顔を見合わせ、やがて短く頷いた。
「構わん。分かっているだろうが、一度『移し』始めれば、すべての病を請け負うまで止めることはできぬ。貴殿の体力が尽き、死に至ったとしてもな……」
「承知しております。王家のため、民の安寧のためであれば、わたくしの命など惜しくはありませんわ」
「……感謝する。それでは、こちらへ」
私は歩き出しながら、冷徹に役人たちを観察していた。お母様が良いように使い捨てられないように。
背の高い役人の瞳には、どこか苦渋の色があった。彼はお母様に死の危険があることを、隠さずに告げた。
対照的に、もう一人の横に大きな役人は、まるでゴミでも見るかのような目でこちらを見ていた。この男は信じてはいけない――私は本能で、そう結論づけた。
★★★
王城の最奥、静謐な空気が漂う離宮のベッドに横たわっていたのは、レガリア王国の王太子、リュシアン殿下だった。
その顔を覗き込んだお母様の瞳が、驚きに微かに揺れる。
殿下の顔は、まるで炭火でも押し当てられたかのように赤く染まり、体からは尋常ならざる熱気が立ち上っていた。絶え間なく溢れる汗が枕を濡らし、脱水が命を削っているのは明白だった。
「そちらの女性が、請け負ってくださるのですね……。ありがとうございます、どうか、殿下を……」
お母様に深々と頭を下げたのは、殿下の乳母だろうか。その瞳は涙で潤んでいたが、お母様の覚悟を受け止めようとする意志が感じられた。
大きく頷いたお母様が椅子に座ると、十人の『剥離師』たちが一斉に殿下を取り囲んだ。
彼らの手によって剥がされた病の根源は、私の目には、恐ろしいほど巨大で禍々しい『黒い塊』となって映った。それは生き物のように蠢き、部屋中の空気を一瞬で濁らせるほどだった。
「覚悟はよろしいですか?」
「ええ、いつでも」
凛とした声。その禍々しい闇を真っ向から見据えるお母様の姿に、剥離師たちですら一瞬、息を呑んだ。
スラムでの過酷な生活のせいで、かつてのプラチナブロンドの艶は失われ、化粧すらしていない。けれど、自らの命を捧げる決意を秘めたその横顔は、金糸を織り込んだドレスを着たどの貴婦人よりも、気高く、美しかった。
「――移します」
剥離師たちが、剥がした闇をお母様へと誘導していく。
激しい熱波が部屋を覆い、私は思わずお母様へと手を伸ばした。けれど、その手はジイの皺だらけの手に、静かに、けれど力強く包み込まれた。私はその手を握り返し、ただ神に祈った。どうか、お母様の命を連れて行かないで、と。
時間にして五分ほどだったろうか。
お母様が病を拒まず、その身をすべて差し出していたからこその短時間だったが、私には、命が削られていく永遠のようにも感じられた。
「なんという精神力だ……。これほどの『熱』を、一切の抵抗なく受け入れるとは……」
「剥離師が十人も必要なかった。まさか、自ら病を迎え入れる者がこの世にいようとは……」
驚愕に震える剥離師たちの声。お母様はすべての病をその身に宿すと同時に、糸が切れたように意識を失った。最後まで耐え抜いたのは、意識が途切れると病の転移が不完全になることを、彼女が熟知していたからだろう。
「お嬢さん……君のお母さんは、本当に、強く、素晴らしい御方だね」
一人の剥離師が、畏敬の念を込めて私に声をかけた。
「はい。私の、自慢の母ですから」
私は、病を移され顔を赤くし、昏睡して横たわるお母様を見つめ、静かに答えた。
「意識が戻るまで、ここで休んでいくことも可能ですが……どうされますか?」
「……いえ。当分目覚めないことは、分かっています。すぐに連れて帰ることはできますか?」
ここにいれば、お母様はまた王家の都合で利用され、観察されるなりするだろう。そう判断した私の言葉に、役人たちは短く頷いた。
「……分かった。すぐに馬車を用意させよう」
こうして、私はジイと共に、昏睡しているお母様を馬車に乗せ、慣れ親しんだスラムの隠れ家へと帰路についたのだった。




