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ひっそりと民を救うのは、追放された真の貴族でした ―王太子の病を請け負った母娘の物語―  作者: 月城 蓮桜音


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第2話 貴族の務め

 あの日から、三年の月日が流れた。

 私は十歳になり、アストレア公爵家の次期後継者としての教育を受ける日々を送っている。

 

 眩い陽光が差し込む祝日の朝。私とお母様は、領内にある公爵家運営の孤児院を訪れていた。ここで行われる奉仕活動は、他の貴族たちのそれとは一風変わっている。優雅にお菓子を配るようなものではなく、もっと切実で、もっと――過酷なものだった。

 

「それでは、公爵様。――『()がし』ますよ」

 

「ええ、お願い」

 

 教会の剥離師(はくりし)がその手をかざすと、寝台に横たわる幼い子供の体から、どろりと濁った『黒い(もや)』が引きずり出された。それは子供を苦しめていた病の根源。

 

 宙を舞う禍々しい霧は、吸い寄せられるようにしてお母様――女公爵エレオノーラの体へと『移されて』いく。

 

「具合は、悪くありませんか……?」

 

 心配そうに覗き込むシスターに、お母様はいつものように慈愛に満ちた微笑みを向けた。

 

「ええ。子供の風邪くらいなら、なんてことはないわ」

 

 お母様は静かに立ち上がると、熱が下がり、穏やかに呼吸し始めた子供の頭を優しく撫でる。

 

「わあ、苦しくない! ありがとう、公爵様!」

 

「ふふ、良かったわね。でも、今日一日はゆっくり休んでいなくては駄目よ?」

 

「はーい!」

 

 十歳の私は、そんなお母様の背中を少し離れた場所から見つめていた。お母様は休日になるたび、後継者である私を連れて孤児院やスラムを回る。それは「民の苦しみを知り、その痛みを分かち合うことこそがアストレアの誇りだ」という無言の教育でもあった。

 

 我がアストレア公爵家は、特殊な血筋を持っている。『病を請け負う』ことが、本来の苦しみそのままに――『等価』で行えるのだ。

 

 通常、教会などの公的機関で病を剥がす場合、請け負う側の負担は元の病の『倍』になると言われている。そのため、貧しい平民や身寄りのない老人が、わずかな報酬のために命を削って『請け負い屋』をしているのがこの国の現状だった。

 

 けれど、アストレアの血を引く者は違う。

 病が強まることなく移されるため、子供の風邪程度なら数人分を一度に引き受けることができる。そして、この『請け負える許容量』は、経験によって増えていくらしい。

 お母様がこうして奉仕を続けるのは、いつか来るかもしれない『大きな災厄』を請け負うための、自分自身への試練なのだという。

 

「公爵様、ありがとう……! 喉が痛くて、お水も飲めなかったのに……」

 

 涙を流して喜ぶ子供の頭を撫でるお母様は、聖画の女神よりも美しく見えた。『慈愛の聖母』。その二つ名は私の誇りであり、いつか自分もそうなりたいと願う、尊敬する師の姿でもあった。

 

「レティシア。あなたは、成人するまで請け負うことは許しません。体が出来上がってからでないと、その身を滅ぼしてしまいますからね」

 

 そう口酸っぱく言われていたから、私は今日まで、その力を使わずに過ごしてきた。

 

「さて、レティシア。帰りましょうか」

 

「はい、お母様」

 

 馬車が屋敷へ向けて走り出すまで、シスターや子供たちはいつまでも笑顔で手を振り続けてくれた。

 

「レティシア、いい? 大人になったら、誰かのためになる行動をしなさい。そして、その生き方を誇れる人間になりなさい。神様は、あなたのすべてを見ていてくださるわ」 

「はい、お母様」

 

 聞き慣れたはずの言葉が、なぜか今日の私の心には、かつてないほどしっくりと染み渡った。私は深く頷き、お母様の澄んだ瞳をじっと見つめ返す。

 

「いい子ね、レティシア」

 

 頭を撫でてくれる手の温もりに、言いようのない安心感を覚えた。お母様はいつだって、私が正しいことをすれば必ず褒めてくれる。「偉いわね」「いい子ね」――その一言が、私の世界の正解だったのだ。

 

 ★★★

 

「到着いたしました」

 

 屋敷の玄関前で馬車の扉が開く。

 家令にエスコートされ、お母様が優雅に地面へと降り立った。その後に続いて私が降りようとした、その時だった。

 開いたままの玄関から、獣のような形相で飛び出してきたのは――私の父だった。

 

「お母様! 危ない!!」

 

 直感的に叫んだ私の声は、銀色に煌めく刃の速度には届かなかった。

 避けようとしたお母様の肩越しに、鋭い剣閃が走る。

 

「――っ!」

 

 鮮血が、舞った。

 お母様の白いドレスの胸元が、一瞬でどす黒い赤に染まり、地面に生暖かい飛沫が散る。

 

「お嬢様! お逃げください!」

 

 今度は私に剣を向けようとする狂った父を、家令と執事が必死の覚悟で押さえ込んだ。

 

「お母様、しっかりして!」

 

 私は十歳の子供だ。大した力はないけれど、立ち止まって泣いている暇なんてない。

 止血しながら逃げるのは不可能だと瞬時に判断した私は、お母様を背後から抱えるようにして必死に運んだ。横に寝かせれば出血が増える。少しでも圧迫して血を止めなければ。

 

 虚ろになり始めたお母様の瞳を呼び戻すように声を張り上げ、去りかけていた馬車の御者の名を呼ぶ。

 

「モーリス! 馬車を出して! 今すぐよ!」

 

「へい……! お嬢様!? 公爵様が……!?」

 

「お父様が乱心したの! 急いで、ここを離れるわよ!」

 

「か、かしこまりました!」

 

 モーリスの手を借りてお母様を馬車の中へ運び込み、手渡された清潔な布で傷口を強く押さえる。

 

「お嬢様、どちらへ……!?」

 

 混乱するモーリスの問いに、私の頭は急速に冷えていった。

 ベルモンド侯爵家? ――いや、駄目よ。お父様が真っ先に手を回している可能性がある。

 安全で、父が想像もつかない場所。お母様が静かに治療を受けられる場所。

 

「スラム街へ。いつもの奉仕活動で使っている角の家まで急いで!」


「了解しました!」

 

 白かった布が、じわりとお母様の命の色に染まり、重くなっていく。

 血の匂いが充満する馬車が、ガタガタと揺れながらスラムの入り口に到着したとき、私は初めて自分の手が震えていることに気がついた。

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