第98話 名なき子の古い記録
石像の向きが祠へ寄り始めたのを見たあと、私たちは再び崩れた文書庫へ戻った。
行ったり来たりばかりだと思う。
だが、この村では中央と外れ、井戸と文書庫、石像と祠がすべて一本の線でつながっている。
行き来すること自体が、読み直しなのだろう。
地下室の帳面は、昨夜のうちにシウが白布でくるみ、仮保管していた。
名なき子に関する頁を、もう一度ちゃんと見なければならない。
エナ本人のことでもあるし、影に合う顔の候補がどこから拾われたのかを知る必要もある。
「読む前に」
エナが言った。
「私が、知っていることを言います」
文書庫地下の小部屋で、私たちは木箱を椅子代わりに座った。
白い根が壁の隙間で脈を打つ。
その下で、エナはまっすぐ前を見たまま話し始めた。
「王都にいた頃、私は“顔の照合”の訓練を受けていました」
「顔の照合?」
私が問う。
「鏡像、遺影、古い王妃画、崩れた墓標の面相、それらを見比べて“誰に近いか”を記録する訓練です」
「子どもに?」
「はい」
「最悪だな」
「知っています」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「当時は意味がわかりませんでした。村へ下げられたあと、訓練記録は閉じたものだと思っていた」
「でも閉じてなかった」
「たぶん」
彼女は帳面を見る。
「私の顔も、どこかで比較対象のままだった」
私は何も言えなかった。
名を伏せるだけでは足りない。
顔まで照合対象として残されていたなら、この少女はずっと“誰に似るか”で評価され続けてきたことになる。
「見ます」
エナが言う。
「一緒に」
「うん」
帳面を開く。
前に見たページの続きだ。
人名の消された巡礼記録、名なき子を混ぜるなという一文、その次。
今日は、前より先が読めた。
たぶん、昨日まで村の地下がまだ隠れていたからだ。
私は指で行を追った。
名なき子 仮留番号 三ノ八
顔照合 第二王妃系低適合
顔照合 第六王妃系中適合
顔照合 未定系高適合
「未定系」
ダフが低く繰り返す。
「何だそれ」
「王妃系でも王系でもない、まだ系統に定まっていない顔の分類です」
エナが答えた。
「訓練のとき、一度だけ聞きました」
「つまり」
私は帳面を睨んだ。
「未定の顔に合いやすい」
「はい」
嫌な言葉だった。
未定系高適合。
それはもう“影に合う顔”の言い換えに近い。
さらに次の行。
名与え延期
村付移送
理由:顔が先に立つため
「……」
私は言葉を失った。
「顔が先に立つ」
「名前より前に、顔だけで席へ引かれやすいという意味でしょう」
ネムがいない代わりに、ダフが静かに言った。
「だから村へ」
「それが保護だったのか」
私が問うと、エナは答えなかった。
少ししてから、ようやく言う。
「半分は」
「また半分か」
「残り半分は、隔離です」
私はこめかみを押さえたくなった。
名なき子の古い記録。
名与え延期。
顔が先に立つため。
王都はこの子を守るために村へ下げたのではない。
守ることと隔離することを、同時にやったのだ。
「まだある」
エナが帳面の下を指した。
そこには、さらに別の筆で追記があった。
古い訓練筆跡に似た、あの字だ。
将来、呼ばれぬ席が現れた場合、この子は顔として用いられるおそれあり。
ゆえに首を見せるな。
井戸を先に見せるな。
婚礼に近づけるな。
「……全部やばいな」
私は言った。
「首は見ました」
エナが静かに言う。
「井戸も」
「婚礼衣装の件まで来た」
「はい」
記録はずっと前から、今を予告していたわけではない。
もっと厄介だ。
“こういう穴がある”と知っていた。
そしてその穴へ近づく条件を、彼女の顔の上に書いてしまっていた。
「これ、消さないとまずいんじゃないか」
私は思わず言った。
「記録を」
「消しても、穴のまわりで別のものが動きます」
エナが答える。
「師匠が何度も言っていました。王都の記録は、消すと静かになるのではなく、別の場所で声を持つと」
「最悪だな」
「はい」
私は帳面を閉じられずにいた。
名なき子の古い記録。
そこに書かれていたのは、彼女の人生ではなく、“彼女の顔がどう使われ得るか”だった。
人としてではなく、条件として。
候補として。
未定系高適合。
顔が先に立つため。
そんな記録のされ方を、誰が人間に対してしていいのだろう。
だが、この国はずっとそうしてきた。
王が半分死ぬ国で、人を“そのまま一人分”として扱う仕組みのほうが少ないのかもしれなかった。
エナは帳面へ手を伸ばし、静かに閉じた。
「知れてよかったです」
「本気で言ってる?」
「はい」
「何で」
「知らないまま使われるより」
その言葉に、私は何も返せなかった。




