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やわらかな王の墓  作者: たむ


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第95話 井戸の底から来る名前

 村の中央広場へ戻ると、人が集まっていた。


 村人たちは以前のように空を見ない。

 だが今日は井戸と石像だけを見ている。

 その視線の揃い方が不気味だった。

 誰かが号令をかけたわけではないのに、全員が同じ一点を向いている。

 王都で言えば、まだ正式文書になっていないのに皆が同じ噂を知っているときの空気に似ていた。


 石像は、本当にまた向きを変えていた。


 今度は文書庫跡ではない。

 広場の中央、井戸のほうを向いている。

 いや、井戸だけではない。

 井戸の“奥”を見ている感じだ。

 首を抱く胴体だけの王が、自分の首ではなく、井戸の底にある何かを見に行こうとしているように見えた。


「封印した首に反応してるのか」

 私が低く言うと、エナが答える。

「半分は」

「残り半分は」

「井戸です」

 

 井戸の縁には、また白花が並んでいた。

 四本。

 五本目はない。

 だが、水のないはずの底から、かすかに湿った匂いが上がってくる。

 前にここへ落ちたときは、もっと乾いていた気がする。

 今は違う。

 王都の古井と何かがつながり、こちら側へも水の気配が漏れ始めているのかもしれない。


「下がっていてください」

 ダフが村人たちへ言う。

 だが、誰も完全には下がらない。

 怖れているのに、見ずにはいられない顔だった。


 私は井戸へ近づいた。

 縁石に古い刻線がある。

 前に見たときより、わずかに鮮明だ。

 読む。


「……“名あるものは上へ、名なきものは下へ”」

 私は言った。

「“だが、下からも時に名は上がる”」

 

 エナが顔を上げる。

「増えています」

「前はなかった」

「はい」


 井戸の底から、音がした。

 歌ではない。

 もっと短い。

 水滴が落ちるような、小さな音。

 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。

 それがだんだん、言葉の拍に近づいてくる。


「……名前だ」

 私は呟いた。

「何が」

 ダフが問う。

「底から、何かが名前を」

 

 そこまで言いかけて、私は凍りついた。

 呼ばれている。

 誰かの名前を。

 最初はわからなかった。

 だが、何度か繰り返すうちに、その音が名前の形を取り始める。

 村人たちのではない。

 もっと古い。

 王都の名前でも、村の普段の呼び名でもない。


 井戸の底から来る名前。

 それは、“名なきものは下へ”の逆流だった。


「聞くな」

 エナが強く言った。

「何が来る」

「上がってきます」

「名前が?」

「はい」


 そのとき、広場の端にいた子どもが一人、井戸へ向かって半歩出た。

 私は反射でそちらを見た。

 昨日、花を数えていたあの子だ。

 名前をまだ呼ばれていないと言った子。

 今、その子だけが、底の音へ自然に引かれている。


「だめだ」

 私は思わず走り、子どもの肩を掴んだ。

 子どもははっとした顔でこちらを見る。

「呼ばれた」

 小さく言う。

「何て」

「まだ、ない名前で」

 

 その答えに、ぞっとした。

 名がないのではない。

 “まだない名前”で呼ばれた。

 つまり井戸は、これから与えられる名、あるいは与えてはならない名を、先に底から上げてきている。


 石像が、鈍く軋んだ。


 全員がそちらを見る。

 首を抱く胴体が、ほんの少しだけ腕を持ち上げたように見えた。

 実際に動いたかはわからない。

 だが村人たちの悲鳴が小さく漏れた。

 見えたのだろう。

 皆にも。


「首を返せ、と」

 シウが震える声で言う。

「石像が……」

「違う」

 エナがきっぱり言った。

「返してはいけない」

 

 彼女は井戸と石像のあいだへ立った。

 その黒衣が、妙に小さく見える。

 だが、退かなかった。


「リョウ」

「何だ」

「底の名前を、聞いたまま言わないでください」

「わかってる」

「少しでも形になると、上がります」


 私は子どもの肩を支えたまま、井戸を見た。

 底の音はまだ続いている。

 今度はもっと近い。

 名を持たぬ子へ、まだない名前で呼びかける。

 それがもし、継承順位の抜け穴へ入るための名なら――。

 影は顔を欲し、井戸は名を上げ、石像は首を求める。

 全部が同時に起きている。


 私は縁石の刻線の続きを読んだ。

 湿った新しい線が、そこへ浮いている。


「……“底から来る名を、上で完成させるな”」

 私は言った。

「“呼び返すな。返せば、席が定まる”」


 村の井戸は、王都の古井よりずっと露骨だった。

 ここでは歌ではなく、名前そのものが上がってくる。

 だがまだ完全な名ではない。

 呼び返さなければ、席も定まらない。

 逆に言えば、誰かがその名を受け取ってしまえば、それで決まる。


「全員、名を呼ぶな!」

 ダフが村人たちへ怒鳴った。

「誰の名も口にするな!」

 

 その命令で、広場は奇妙な沈黙へ包まれた。

 子どもも、大人も、私も、エナも。

 誰も名前を口にしない。

 王都と村、その両方の恐れが、同じ一点へ集まっていた。


 井戸の底から来る名前。

 それは、まだ呼ばれていない王へ与えるための名かもしれない。

 あるいは、名を持たぬ子へ先に降りてくる席の名かもしれない。

 どちらにせよ、今ここでそれを上へ完成させてはいけない。


 石像は、それ以上動かなかった。

 井戸の音も、やがて少しずつ遠のいていく。

 だが、完全には消えない。

 底のほうで、まだ誰かの“これからの名前”を用意している気配だけが残った。


 私は子どもの肩から手を離し、深く息をついた。

 村の井戸は、ついに名そのものを上げ始めた。

 顔と位置の次は、名だ。

 影が先に王になろうとするなら、次に必要なのは、それを王として呼ぶための名前なのだから。

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