第92話 村の王像が見ているもの
文書庫地下の最奥の扉は、見た目より軽く開いた。
重い扉だと思っていた。
だが、根の絡んだ縁を押すと、抵抗はほとんどない。
むしろ“待っていた”みたいに、静かに内側へ開いた。
そのこと自体が嫌だった。
中は、狭い石室だった。
何もない。
最初はそう見えた。
だが目が慣れると、奥の壁にひとつ、石の台がある。
その上へ、白布をかけたものが載っていた。
人の頭ほどの大きさ。
箱ではない。
もっと丸い。
「……」
誰もすぐには近づかなかった。
空気が違う。
王都の墓廊や井戸とも違う。
ここはもっと静かで、もっと個人的な冷たさがある。
誰かが隠したものに近い温度だ。
「私が」
エナが言いかけたが、私は首を振った。
「一緒に行く」
「危ない」
「知ってる」
「でも」
「知ってる」
私たちは二人で石台へ近づいた。
白布は古いが、傷んでいない。
定期的に替えられていたのかもしれない。
誰かがここへ来ていた。
師か、シウか、あるいは別の誰か。
「外す?」
私が小声で聞くと、エナは一度だけ息を整えた。
「はい」
白布を持ち上げる。
そこにあったのは、石の首だった。
首を抱く王像の、抱かれていたほうの首。
私は瞬時にそうわかった。
村の中央に立つ石像が、胴体だけで首を抱えているのは知っている。
だが今ここにあるのは、その“本物の首”に見えた。
彫りは同じ。
石の色も同じ。
ただし、表情だけが違う。
村の広場の石像の首は、遠目には沈んだ顔だ。
だが今ここにある首は、目を閉じていない。
薄く開いている。
しかも、ほんのわずかに笑っているようにも見える。
「……最悪だな」
私は言った。
「ええ」
エナの声もひどく小さい。
首の下には、台座に直接、短い文字が刻まれていた。
また読める。
読めてしまう。
――王都が顔を失うとき、村は首を預かる。
――胴は都に立ち、首は辺へ眠る。
――再び向く日まで。
「向く日」
私は呟いた。
「今日だ」
「はい」
エナが答える。
「石像が文書庫跡を向いたのは、ここを見ているから」
つまり村の王像は、抱いているはずの首がここにあることを前提に作られていたのだ。
首を抱く胴体。
地下に眠る本物の首。
都と村で分かたれた王の顔。
王が顔を落とすとき、村がそれを預かる。
そういう仕組みが最初からあった。
「王都が顔を失うとき、村は首を預かる」
私はもう一度言った。
「王妃系の鏡だけじゃなかった」
「はい」
エナの目は首から離れない。
「村そのものが、王の顔の保管庫だった」
ダフが後ろから近づき、台座を見た。
「何か挟まってる」
「どこ」
「首の下」
石の首の台座の縁に、薄い木札が差し込まれていた。
引き抜く。
古い。
だが文字は残っている。
「読む」
私は言って、木札へ目を落とした。
もし王の顔が井戸へ落ちるなら、この首を地上へ戻すこと。
ただし、呼ばれていない者に向けるな。
村の王像がこちらを向く日は、都が自分の顔を取り戻しに来る日。
「……」
私は木札を持つ手に力が入るのを感じた。
都が自分の顔を取り戻しに来る日。
それが今だというのか。
呼ばれていない者に向けるな。
つまり、この首を第十四の影へ向けてしまえば、影が顔を得る可能性がある。
だからずっと地下に隠されていた。
「石像が文書庫跡を向いたのは」
ダフが低く言う。
「首を出せ、と」
「あるいは」
エナが答える。
「都がここを見つけるため」
私は地下室の冷たさの中で、村の広場の石像を思い浮かべた。
首を抱く胴体だけの王。
皆が見慣れていた異形。
あれは怪異でも象徴でもなく、都と村で分割された“王の顔”の保管装置だったのだ。
「村の王像が見ているもの」
私は呟いた。
「自分の首か」
「はい」
エナが言う。
「そして、王都が失いかけた顔です」
石の首は静かだった。
だが、その静けさは死んだものの静けさではない。
戻されるのを待つものの静けさだ。
王都が顔を失い、影が顔を欲し始めた今、この首をどうするかで、たぶん次が決まる。
村はそのために、ずっと辺境で首を預かってきたのだろう。
私は木札を握りしめた。
都が自分の顔を取り戻しに来る日。
呼ばれていない者に向けるな。
それはもう、猶予の最後の使い方を問う言葉にしか見えなかった。




