第88話 鏡の向こうの花嫁
翌朝、私たちは宮城の女系遺物保管区へ入った。
地下庭園のさらに奥、第二王妃の指輪が一度流された水脈保管区の隣にある細室だ。
前に来たときより、明らかに警備が増えている。
扉の前に埋葬官二名、祈祷院の女官一名、監査局からネム。
そして室内には、布をかけられた鏡が三面。
「三つ?」
私は言った。
「増えてるな」
「元から三面です」
リシェが答える。
「ただ、前回は一つしか使っていませんでした」
「今日は全部?」
「必要になるかもしれません」
室内は暗い。
灯りを絞り、水盤の位置まで変えている。
正面の鏡にはまだ布がかかったままだが、その布越しにでも、向こう側に“何かいる”感じがするのが嫌だった。
「最初に見たのは誰だ」
私は問う。
祈祷院の女官が手を挙げる。
「私です」
「何を見た」
「花嫁の顔を」
その答えに、私は嫌な予感しかしなかった。
灰色の婚礼衣装。
六輪の花。
婚礼前の者より、と書かれた墓預けの手紙。
王都の“まだ結ばれていない席”は、婚礼へも深くつながっている。
「記録を」
ネムが促す。
女官は少し震える声で言った。
「ユレナの鏡像確認後、正面鏡を覆い直しました。そのあと、水盤の位置を整えるため横鏡を見たとき、知らない女の顔が映っていました」
「知らない?」
リシェが問う。
「王妃候補でも妃系登録像でもない」
「何に見えた」
「花嫁です」
女官は唇を湿らせるように息をつき、続ける。
「髪が結い上げられ、灰色の薄衣を着ていた。顔は若い。でも、目だけが……」
「何だ」
私が訊くと、女官は言い淀んだ。
「決めきれていない目でした」
その表現に、私は背中が冷えた。
顔はある。
でも、目だけが“誰であるか”へ届いていない。
影が顔を得る途中のような顔だ。
「鏡を見せて」
リシェが言った。
「ただし順に」
布が一枚だけ外される。
横向きの細い鏡だ。
前の鏡より曇りが強い。
そのぶん、像が立つときは余計に濃くなるのだろう。
「まず水を動かさないで」
エナが小さく言う。
「鏡だけ見ます」
私は鏡の前へ立った。
自分の顔がぼんやり映る。
少しやつれている。
王都へ来てからまだ大して日も経っていないのに、顔の減り方が早い。
そんなことを考えた瞬間、鏡の奥の像が揺れた。
私の背後に、女が立っている。
反射的に振り向きかけ、止まる。
室内にそんな人影はない。
鏡の向こうにだけいる。
若い女。
灰色の婚礼衣装。
髪には白い花が六輪。
そして目が、本当に“決めきれていない”。
「……いる」
私は言った。
「見えます」
エナがすぐ記録する。
「誰に似ていますか」
「誰にも完全には」
私は答えながら、目を凝らした。
「でも……少しずつ変わる」
「変わる?」
ダフが問う。
「王妃候補ユレナに少し似る。次に、もっと年上の女にも似る。最後に」
私は言葉を切った。
「最後に?」
「……誰にも似てない顔へ戻る」
鏡の向こうの花嫁。
それは一人の人物の顔ではなかった。
複数の候補を少しずつなぞり、しかしどこにも決まりきらず、花嫁の姿だけを保っている。
婚礼衣装は席を結ぶ。
ならこの像は、“結ばれる前の顔”の寄せ集めなのかもしれない。
「読めるか」
リシェが低く問う。
「やる」
私は鏡面の端、花嫁の花が映るあたりを見た。
白い六輪が、鏡の中では七輪に見える。
そのずれが文字のように立った。
「……“まだ嫁がぬ顔”」
私は言った。
「“家へ入る前、王へも入る前”」
エナの筆が少し速くなる。
「続きは」
「“呼ばれぬ席が女の顔を借りる”」
その一文で、室内の空気が明確に重くなった。
呼ばれていない王の影が、女の顔を借り始めている。
王妃候補や婚礼前の花嫁の顔は、王都において“まだ定まらぬ席へ入る前の顔”として扱いやすいのかもしれない。
だから鏡に出る。
「最後は」
私は鏡の奥へ意識を寄せた。
「“名を問えば、誰かに定まる”」
ネムが顔を上げる。
「だから名を問うな、と」
「ええ」
エナが答える。
「セファの伝言どおりです」
鏡の向こうの花嫁は、まだこちらを見ている。
目だけが決まらない。
顔はあるのに、誰の顔にもなりきらない。
もしここで名前を与えれば、その瞬間に“誰か”へ定まってしまう。
王都は今、その寸前で足踏みしているのだろう。
私は鏡から一歩下がった。
背中に冷たい汗があった。
影が先に王になる。
その次は、顔が先に花嫁になる。
王都の異常は、王と王妃の境目を使って、仮座へ顔を流し込もうとしている。




