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やわらかな王の墓  作者: たむ


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87/103

第87話 呼ばれぬ者の顔

 十三王墓から戻った夜、私はしばらく鏡を見たくなかった。


 北区記録倉の部屋に鏡はない。

 磨いた金具も、水を張った鉢も、今夜はできるだけ視界へ入れたくない。

 顔を残す鏡。

 王妃候補の棺。

 呼ばれていない王に顔を与えるな――墓のあの一文が、ずっと頭の奥で鳴っていた。


 それでも王都は、考えたくないことほど先に机へ置いてくる。


 夜半前、サラが無言で一枚の紙を寄こした。

 宮城からの速報だ。

 短い文面の一番下に、見慣れた癖のある筆跡でセリオの追記がある。


「何て」

 エナが覗き込む。


 私は声に出した。

「“女系遺物保管区、鏡像観測の一部停止。理由、鏡面に未登録の顔を確認”」

 

 部屋が静まり返る。

 未登録の顔。

 登録されていないのだから、誰の顔か判定できない。

 あるいは、誰でもない顔が記録へ先に現れたということだ。


「来たな」

 サラが低く言う。

「来た、って」

「顔の側まで」

 

 私は紙を机へ置き、目を閉じた。

 位置。声。供花。

 そして次が顔。

 順番があまりに露骨で、かえって腹立たしい。

 王都の異常はいつも、こちらが最悪を理解し始めたところへ、きっちり次の段階を出してくる。


 そのとき、北区の外で小さな鈴が鳴った。


 白鈴ではない。

 もっと軽い、倉番が使う入来鈴だ。

 こんな時間に来客は珍しい。

 サラが眉を寄せ、扉へ向かう。

 少しして戻ってきた彼女の後ろに、灰衣の若い女が立っていた。祈祷院の下仕えらしい。


「祈祷院から」

 女は言った。

「盲目司祭セファの伝言です」

「今?」

 私が言うと、女はこくりと頷く。

「“呼ばれぬ者の顔を見たら、水へ向けるな。名を問うな。まず、誰が先にそれを見たかを記せ”と」

「……」

「それだけです」


 女は一礼して去った。

 北区の扉が閉まり、夜がまた戻る。


「誰が先に見たか」

 ネムが呟く。

「順番の問題か」

「それだけじゃない」

 私は言った。

「最初の目撃者が、顔の“入り口”になるってことかもしれない」

「あり得ます」

 エナが答える。

「王都では、最初に見ることはただの発見ではないので」

 

 私はため息をついた。

 発見が関与へ変わる街。

 見た時点で、少しずつそのものの記録へ噛み込まれる。

 そういう理屈が、この国ではあまりに多い。


「明日」

 ネムが言う。

「鏡像観測の停止前記録を見に行く必要があります」

「逃げ道は」

「ありません」

「だろうな」


 エナは机の隅に置いた五本目の花の布包みを見つめていた。

 その花も、今はもうただの花には思えない。

 呼ばれぬ席へ触れるための白い余白。

 王都のあちこちで、そういう余白が増えている。


 私は寝台へ横になったが、すぐには眠れなかった。

 未登録の顔。

 それは誰のものなのか。

 王妃候補たちの残りか。

 それとも、第十四の影がついに“顔になる前の顔”を手に入れかけているのか。

 そして、それを最初に見たのは誰なのか。

 王都では、その順番ひとつで意味が変わる。


 呼ばれぬ者の顔。

 考えれば考えるほど、名前のないまま近づいてくるもののほうが、名を持つ者よりずっと重たいとわかってきた。

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