第84話 猶予の朝
翌朝の王都は、妙に静かだった。
いや、正確には、静かに見えた。
荷車は動いている。
北区の倉は開き、宮城へ向かう使いもいる。
市場の鐘も鳴った。
それでも、都のどこかが一歩だけ息を止めているような静けさがあった。
昨夜、影が王の声で「まだ」と言ったことを、都そのものが聞いてしまったのかもしれない。
猶予。
その一語だけで、今朝の王都は昨日より少しだけ壊れずに済んでいる。
私は北区記録倉の薄い寝台で目を覚ましたあと、しばらく天井を見ていた。
夢は見なかった。
あるいは、見たが覚えていない。
それが逆にありがたかった。
王都では、夢まで記録へ近づいてきそうで嫌になる。
起き出すと、サラがすでに帳面を開いていた。
「顔が昨日よりまし」
「それ、かなり低い基準だな」
「王都では現実的な基準だよ」
彼女は私を一瞥し、紙片を一枚寄こした。
「今朝の速報」
「また嫌なやつか」
「今朝は少しだけ、嫌じゃない」
紙には、王都内の夜間異常観測の簡単な一覧がある。
鐘の沈み、なし。
古井の歌、弱。
骨魚の低空巡回、少。
供花の増殖、局所。
影の目撃、宮城内一件、再発なし。
「ほんとだ」
私は言った。
「少し落ち着いてる」
「猶予だろうね」
サラが答える。
「都はときどき、崩れる前に自分で一息つく」
「いい言い方じゃないな」
「良い現象でもない」
エナも起きてきた。
昨夜より少し顔色が戻っている。
それでも目の奥の緊張は抜けていない。
彼女は紙片を見て、小さく頷いた。
「井戸も弱い」
「完全に止まったわけじゃない」
私が言うと、彼女は答える。
「はい。猶予は回復ではありません」
「だろうな」
しばらくしてネムが北区へ来た。
珍しく少しだけ歩く速度が落ちている。
役所の人間が歩みを落とすのは、本気で疲れているか、本気で考え込んでいるときだ。
「昨夜の記録、回りました」
彼は言った。
「どう書いた」
「“半身の間前西回廊にて未定位影を確認。王の声に類似する音あり。消失前に短語『まだ』を発する”」
「弱いな」
「正式記録なので」
私は苦笑した。
「俺の“猶予”は?」
「補注に」
「補注か」
「王都では、重要なことほど最初は補注です」
その言い方が妙にしっくりきて、嫌だった。
王都の本質的なことは、たいてい本文ではなく、端の注にしか載らない。
目立たず、しかし後で全部そこへ戻る。
「今朝、宮城からも知らせが」
ネムが続ける。
「陛下は目を覚ましておられます」
「それ、昨日までより良いのか」
「少なくとも、朝の時点では」
「半分しか目を開かない王が、ちゃんと?」
「今日は少し多く」
少し多く。
それだけで吉報になるのが、この国の限界をよく示していた。
私は北区の扉越しに、外の光を見た。
灰色だ。
でも、昨日より少しだけ薄い。
王都の猶予は天気にすら出るのかもしれない。
「今日は何がある」
私が訊くと、ネムはためらいなく答えた。
「猶予のあいだに、何を固定し、何を外すかを決めます」
「最悪だな」
「ええ」
「でも王都らしい」
「はい」
猶予があるなら、そのあいだに次の崩れ方を整理する。
王都は、そういう都だ。
休息のために猶予を使わない。
次の綻びを縫うために使う。
エナが小さく言った。
「昨日の影は、消えたわけではありません」
「知ってる」
「ただ、まだ呼ばれていないまま退いただけ」
「猶予ってそういうことだろ」
「はい」
私は立ち上がり、胸の前で一度だけ手を握って開いた。
身体はまだ自分のものだ。
膝もまだ勝手に折れない。
呼ばれてはいない。
その事実を、今朝はちゃんと確かめておきたかった。




