第83話 呼ばれていない王
影が王に似た声を出したあと、回廊の空気はしばらく凍ったように動かなかった。
兵も侍従も、埋葬官も、誰もその場を壊すような動きができない。
王がいる。
その前に、王の前で跪く影がいる。
しかもその影が、王の声に似たものを出した。
この場で何を優先すべきか、制度そのものが一瞬迷ったのだろう。
最初に動いたのは王だった。
王はほんのわずかに手を上げ、侍従を制した。
それから、影に向かって一歩だけ進む。
セリオが止めようとしたが、間に合わなかった。
「あなたは」
王が言う。
声は掠れている。
「誰ですか」
影は答えない。
だが、沈黙が空白ではない。
“まだ呼ばれていない”感じがそこにある。
私はその違いを、今夜ははっきり感じ取れた。
答えないのではない。
答えられる名を、まだ持っていない。
だから声だけが似て、位置だけがあり、顔だけがない。
「呼ばれていない」
私は思わず呟いた。
エナがこちらを見る。
「何が」
「王だ」
口にしてから、ぞっとした。
だが同時に、妙に腑に落ちてもいた。
王は即位によって王になるのではなく、都に呼ばれて王になる。
供花、井戸、墓、鐘、王冠、記録、勅令。
それら全部に呼ばれて、ようやく席と名が噛み合う。
なら目の前の影は、まだそこまで呼ばれていない王だ。
呼ばれていないから、声だけで立っている。
「……呼ばれていない王」
ネムが低く反復した。
「正確かもしれません」
「正確すぎて嫌だな」
私は答えた。
王は影の前で止まった。
ほんの数歩の距離。
現の王と、呼ばれていない王。
そのあいだの空席は、もう前ほど空いて見えなかった。
何かで満ち始めている。
おそらくは、見ている私たちの理解と恐れで。
「あなたは」
王がもう一度言う。
「私の代わりですか」
影が、ごくわずかに顔のあるべき場所を傾ける。
それは肯定にも否定にも見える。
要するに、まだどちらにも決まっていない。
「だめだ」
エナが低く言った。
「それは聞いてはいけない」
「何で」
私は目を離せないまま問う。
「代わりかどうかを先に問うと、答えの形を与えます」
その理屈は、王都では充分あり得た。
名前を呼ばない。
第十四を言わない。
顔がないものへ、先に役割だけを問わない。
全部同じ慎重さだ。
だが、王はもう問うてしまっている。
その瞬間、影の後ろにあった二輪の花が、三輪になった。
私は息を止めた。
供花の数が、問答に応じて増えている。
花は言葉の代わりだ。
なら今、王の問いに対して、花のほうが先に応答しているのかもしれない。
「三つ」
ダフがかすれた声で記す。
「王、影、空席」
「やめろ」
私は反射的に言った。
「数えるな」
「でも」
「今はやめろ」
自分でも驚くほど強く言っていた。
数えることが、そのまま進行を認める行為に思えたからだ。
供花の五本目を見たあとでは、数えは中立ではないともうわかっている。
王はそのやり取りを聞いていたのかいないのか、影から目を離さなかった。
「私は」
彼はゆっくり言う。
「まだ呼ばれているのでしょうか」
その問いは、影ではなく、都そのものへ向けられた問いだった。
だが答えるのは誰でもない。
誰でもないからこそ、井戸や墓や花が先に応じてしまう。
影が、またあの声を出した。
今度は前よりはっきりしていた。
王の声に似ている。
だが、そこから個人の痛みだけを抜いたような、空虚な響き。
「……まだ」
それだけだった。
たった二音。
けれど、その“まだ”が回廊全体へ落ちた瞬間、私は理解した。
これは王への慰めではない。
猶予の宣告だ。
まだ呼ばれている。
まだ追い出されていない。
まだ、空席に完全には変わっていない。
王の肩から、ほんのわずかに力が抜けたのが見えた。
それを安堵と呼んでいいのかはわからない。
“まだ”しか残っていない人間の安堵は、たいてい長く持たない。
影はそれ以上喋らなかった。
やがて、跪いたまま薄くなり始める。
灯りに溶けるのではない。
呼ばれていない声が、言葉を終えて退くみたいに、輪郭だけが下がっていく。
最後まで残ったのは、石床の上の三輪の花だった。
王はそれを見下ろし、少しだけ目を閉じた。
本当に少しだけ。
半分しか開かない目を、今度は半分しか閉じられないようにも見えた。
「下がりましょう」
セリオが静かに言う。
「陛下」
王は頷いた。
だが去る前に、一度だけ私を見た。
「外から来た人」
「はい」
「今夜のことを、あなたは何と記しますか」
私はすぐには答えられなかった。
現の王。
呼ばれていない王。
空席。
三輪の花。
どれも正しく、どれも危うい。
だから、ひとつだけを選んだ。
「猶予だと思います」
私は言った。
「……まだ、猶予がある」
王は小さく頷いた。
その表情は、安堵にも絶望にも見えた。
呼ばれていない王。
それは王都の外から来た影ではなく、王都そのものが“まだ決めきれていない次”の姿なのだろう。
そして今夜、その次は王の声で“まだ”と言った。
たったそれだけで、都全体が一夜ぶん延命したような気がした。




