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やわらかな王の墓  作者: たむ


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82/95

第82話 王の前の空席

 半身の間の扉から現れたのは、王その人だった。


 侍従が二人ついている。

 だが今夜の王は、前に見たときよりさらに薄かった。

 薄い、というのは顔色だけではない。

 輪郭そのものが、少しだけ向こう側へ引かれている感じがする。

 身体はここにある。

 だが、王の“像”の一部はすでに別の場所へ預けられている。

 井戸に映る王を見たあとでは、その薄さが余計に現実味を持った。


 王は回廊へ出ると、まず跪く影を見た。

 次に、その後ろの供花を見た。

 そして最後に、私たちのほうへ視線を向けた。

 声はない。

 だがその沈黙だけで、この場の重さがひとつ増す。


「……やはり」

 王がようやく言った。

 かすれているが、聞き取れた。


 影は動かない。

 王もすぐには近づかない。

 王と影のあいだに、ちょうど一人分の空間がある。

 私はそれを見た瞬間、ひどく嫌な理解をした。

 あれは空いているのではない。

 空席だ。

 王の前に、王のための空席がもう見えている。


「王の前の空席、か」

 私は喉の奥で言った。

「はい」

 エナがほとんど息のような声で答える。

「見えてしまいました」


 セリオが一歩前へ出る。

「陛下、お下がりください」

「だめです」

 王は静かに言った。

「あれは、私に近い」

「だからこそ」

「だからこそ、見る」

 

 その言葉には、意地でも威厳でもない種類の硬さがあった。

 もう自分が何を失いかけているのかを知ってしまった人間の、引き返せない硬さだ。


 王は半歩だけ進んだ。

 すると影が、ごくわずかに顔を上げた。

 いや、顔のあるべき場所が上を向いた。

 輪郭のない面が、王へ向く。


 その瞬間、私は王ではなく、空席のほうを見てしまった。

 影と王のあいだの空間。

 そこに、もう一つの“跪くべき位置”が二重に見える。

 ひとつは影のもの。

 もうひとつは、誰か別の者が後から入るための余白。

 仮座。

 ネムの言っていた継承順位の抜け穴が、図ではなく空間としてそこにあった。


「読めますか」

 ネムが後ろから問う。

 私は答えられなかった。

 読む前に、意味が胸へ落ちてきたからだ。


 王の前に王の席が二つある。


 その感覚に、吐き気がした。


「……席が重なってる」

 私はようやく言った。

「陛下の前に、もう一つ」

 

 王が私を見た。

 その目は疲れている。

 だが今は、半分しか開かない目の奥に、はっきりした恐れがあった。


「それは」

 王が低く言う。

「私のためのものですか」

 

 私は答えに詰まった。

 王のためか。

 王の次のためか。

 あるいは王の代わりのためか。

 どれもあり得て、どれも違う気がする。


「まだ」

 私は言った。

「顔が決まっていない」

「ええ」

 王が頷く。

「だから怖いのです」


 影の後ろの白花が、一輪から二輪になった。


 誰も置いていない。

 それでも確かに、今は二輪ある。

 王と影。

 あるいは、現の王と仮の席。

 供花の数えが、もうそれを認め始めている。


「撤去しますか」

 ダフが小さく問う。

「だめ」

 エナが即座に言う。

「今触ると、空席のほうへ誰かを押し込みかねない」

「じゃあどうする」

「見るしか」


 王はそれを聞いて、ひどく静かな顔をした。

 諦めではない。

 もっと古い、制度の前で個人が持つしかない顔だ。

 受け入れるでもなく、抵抗するでもなく、ただ見ているしかない顔。


 王の前の空席。

 それは“まだ誰もいない”場所ではなかった。

 影が先に跪き、花が来て、空間が席として張り始めている。

 王都の数えは、もうそこを空白とは見なしていないのだ。


 そのとき、影が少しだけ揺れた。

 そして、はじめて声のようなものが出た。


 言葉ではない。

 だが王の声に似ていた。

 似ているのに、もっと空っぽだった。


「……っ」

 王の喉が小さく鳴った。

「私の声」

 

 背筋が凍る。

 影は、位置だけではない。

 次に声まで取り始めている。

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