第80話 影が先に王になる
継承順位の抜け穴が見つかった日の夜、王都の空はひどく低かった。
骨魚の影は見えない。
だが、影が見えないときほど、空そのものが重い。
宮城の石壁も北区の倉も、上から押されているみたいに静かだった。
私は北区記録倉の外の石段に座っていた。
サラがくれた薄い茶はもう冷めている。
飲んでも味はほとんどしない。
それでも手の中に何か持っていないと、考えが空へ持っていかれそうだった。
王位継承の抜け穴。
仮座。
井戸の歌の二番。
五本目の花。
名を呼ばれてはいけない影。
全部が、王そのものより“王になる前の形”をめぐって動いている。
この国では、人が王になるのではない。
影が先に王に近づき、人はあとからそれに合わされる。
「ひどい顔」
サラが隣へ座りながら言った。
「知ってる」
「だいぶ王都っぽくなってきた」
「嬉しくないな」
「だろうね」
彼女は私の持つ茶杯を見て、それから空を見上げずに言った。
「仮座の話、聞いた」
「早いな」
「北区はそういうのだけ早い」
「どう思う」
サラは少しだけ考えてから答えた。
「影が先に王になる」
「……」
「そういう都だよ、ここは」
私は杯を握りしめた。
それは、私がぼんやり感じていたことを、乱暴なほど正確に言い当てていた。
「人じゃなくて影が先」
「うん」
「顔がなくても、席が先に歩く」
「うん」
「最悪だな」
「知ってる」
しばらく、二人で何も言わずにいた。
北区の夜は静かだ。
けれど、静けさの中で荷車は動き、誰かが倉を開け、遠くで鐘が鳴る。
王都は眠らない。
眠らないまま、影だけを育てている。
「リョウ」
サラが言う。
「何だ」
「今のあんた、ちょっと危ない」
「今さら?」
「今さら」
彼女は真面目な顔だった。
「王命を受けてから、あんたは“読む人”じゃなく、“位置を与えられた人”になり始めてる」
「位置」
「井戸の前の北。巡礼路の跪き痕。半身の間の膝。全部、あんたの立つ場所として記録されてる」
「やめろよ」
「やめたいけど、やめられない」
私は目を閉じたくなった。
読手。異邦人。王命。
それらは役職名だと思っていた。
だが今は、もっと具体的に“どこへ立つか”として王都に記録され始めている。
名ではなく位置。
それは、影に近い管理のされ方だった。
「影が先に王になる」
私はもう一度呟いた。
「じゃあ人は何なんだ」
「埋め草」
サラが言った。
あまりに即答で、私は思わず笑ってしまった。
「ひでえな」
「でも、そう見えるでしょ」
「……否定しにくい」
そのとき、倉の扉が開き、エナが出てきた。
黒衣の上に薄い灰の肩掛けを羽織っている。
夜気の中で、その顔だけが少し青く見えた。
「セリオが来ます」
彼女が言う。
「今?」
「はい。急ぎです」
やはり来たか、と思った。
大きな事が動くときの王都は、不思議なくらい静かに人を呼ぶ。
叫ばない。
知らせのほうが、先にもう決まっている顔で来る。
ほどなくして、セリオとネムが連れ立って現れた。
セリオの顔はさらに削れている。
ネムの目の下の隈も深い。
どちらも、良い報せを持ってくる顔ではない。
「入ります」
セリオが短く言う。
「何が」
私が立ち上がると、彼は答えた。
「影です」
沈黙。
それだけで十分すぎるほど嫌だった。
「どこへ」
エナが問う。
「宮城の内側へ」
セリオの声は硬い。
「半身の間に近い回廊で、今夜二度目撃されています。顔は未定。だが」
「だが?」
私が促す。
セリオは一瞬だけ私を見た。
「立っていた位置が、王の前に跪く位置と一致した」
茶杯が、私の手の中で少しだけ鳴った。
井戸の前の北。
半身の間の膝。
巡礼路の跪き痕。
そして今、顔のない影が、王の前に跪くべき位置へ立っている。
「最悪だな」
私は言った。
「ええ」
セリオが答える。
「だから来た」
影が先に王になる。
その言葉が、もう比喩ではなくなり始めている。
王都の中で、まだ顔も名も持たぬものが、王の前の位置へ先に立っている。
なら次は、その影へ誰が合わせられるのか、という話になる。
仮座。
王命。
名なき子。
王妃候補。
全部の線が、夜の宮城へ集まり始めていた。
「行くぞ」
セリオが言う。
「今夜、位置だけの王を見に」
私は深く息を吸った。
冷えた夜気が肺へ入る。
ここまで来たら、もう逃げたところで何も減らない。
影が先に王になるのなら、その瞬間を見なければならない。
たとえそれが、自分の立つ位置に近すぎるとしても。




