第78話 顔を残す鏡
王妃候補ユレナの棺の底から見つかった鏡は、その日のうちに埋葬部の仮封箱へ移された。
仮封箱といっても、ただ蓋をして棚へ置くわけではない。
白布で包み、外側に供花を一本だけ添え、記録札を二重に付ける。
王都では危ないものほど厳重に扱うが、同時に“危ないとわかる形”でも保管する。
うっかり触れないためでもあるし、誰かが意図的に開けたとき、すぐ痕跡が残るようにでもあるのだろう。
「鏡は井戸に近い」
リシェが封を確認しながら言った。
「水面の代わりになる」
「だから顔を残す?」
私が問うと、彼女は頷いた。
「井戸へ落ちる前に、像だけを鏡へ写す。王都の古い女系遺物では、ときどきそういう発想が出ます」
「怖すぎるな」
「ええ。ですが、使われてきた」
エナは仮封箱の横で、鏡の記録札を書いていた。
筆の動きは正確だが、少しだけ速い。
考えたくないことを考えないために、手だけを進めている人間の速さだ。
「ねえ」
私は小さく言った。
「“顔を残す”って、どういう意味なんだろうな」
エナは筆を止めずに答えた。
「王都では、顔は名の次に遅く失われるものだから」
「名より先じゃないのか」
「井戸へ関わるときは、逆もあります」
その答えは重かった。
名が先に抜けるときもある。
顔が先に落ちるときもある。
王都の異常は、どこから崩れるかが一定ではない。
だから埋葬部は、名も顔も供花も、全部別々に記録しているのだろう。
夜へ入るころ、セリオが埋葬部へ戻ってきた。
顔色は悪い。
だがそれは寝不足だけではなさそうだった。
「王妃候補の件は聞きました」
彼は言い、仮封箱を見た。
「鏡は?」
「仮封済みです」
リシェが答える。
「観測では、ユレナの顔の後ろに別の女系像が重なりました」
「第二王妃系でほぼ確定か」
「はい」
セリオは小さく息を吐いた。
「遅かった」
「何が」
私が問うと、彼は少しだけ迷ってから答えた。
「王城の女系遺物は、本来ならもっと前に整理されるべきだった」
「整理」
「井戸や婚礼や王妃候補へ、いまさら再接続される前に」
なるほど、また後手だ。
王都は何でも、異変が外へ漏れてからようやく“整理されるべきだった”と言い始める。
だが、その遅さこそが王都の本性なのかもしれなかった。
セリオは私へ視線を向けた。
「鏡をもう一度見てもらいます」
「今?」
「今夜」
「理由は」
「顔は夜に深く残る」
「やっぱり嫌だな、その言い方」
結局、夜半前に小さな観測室が作られた。
埋葬部の奥、水盤のある細室。
灯りは最小限。
鏡は白布の上へ置かれ、その前に小さな水鉢がひとつ。
水面と鏡面を向かい合わせる形だ。
「何これ」
私は言った。
「顔を残す鏡の、残り方を確認する」
セリオが答える。
「王都では、水と鏡を向かい合わせると像が濃くなることがあります」
「その情報、早く聞きたいことと、聞きたくないことの中間だな」
「王都の知識は大体そうです」
私の立ち位置は鏡の正面だった。
エナが右。
リシェとダフが記録。
セリオは背後。
私は鏡へ目を向けた。
曇った面。
その前の黒い水鉢。
嫌な組み合わせだ。
まるで、井戸を小さく室内へ持ち込んだみたいだった。
女司祭が短い句を唱える。
水面が揺れ、やがて静まる。
その静けさの中で、鏡面の曇りがほんの少し晴れた。
最初に映ったのは、私たちのぼやけた姿だった。
次に、白布の端。
そして、その奥から、女の顔がゆっくり浮いた。
ユレナ。
間違いなく彼女だ。
けれど一拍遅れて、その顔の輪郭がもうひとつ重なる。
年長の女。
王妃か、その系の誰か。
さらに、その後ろに、もっと薄い輪郭がある。
三重だった。
「三人」
私は言った。
「三重です」
エナが記す。
「第二王妃系の累積像」
「累積って言うなよ、データじゃないんだぞ」
「でも近いです」
私は息を整え、鏡面の縁を見た。
意味が浮かぶ。
やはり読める。
「……“顔は流れに耐えぬ”」
私は言った。
「“ゆえに鏡へ仮置きする”」
「続けて」
セリオが促す。
「“名はほどけ、指は返らず、顔だけが女から女へ残る”」
観測室の空気が少しだけ重くなった。
女から女へ。
王妃、候補、婚礼衣装、指輪。
王都は王位だけでなく、その周辺の“女の顔”も別系統で保存し、運んでいるらしい。
「水脈系の継承か」
リシェが低く言った。
「血だけではなく」
「そういうことかもしれない」
セリオが答える。
私は鏡面を見続けていた。
そこへ映る女たちは、ただの幽霊には見えない。
もっと事務的で、もっと執拗な残り方だ。
使うために残された顔。
失われる前に仮置きされた顔。
王都は、人ひとりの人格を保存するのではなく、必要な“面”だけを分けて残す。
「最悪だな」
私はまた言った。
「ええ」
セリオが頷く。
「ですが、これでわかったこともある」
「何が」
「顔の保存は、王だけに起きているのではない」
王が半分しか目を開かない。
王の顔が井戸へ先に落ちる。
そして王妃候補たちの顔も、鏡へ仮置きされる。
王都は“顔”そのものを制度の部品として扱い始めている。
そう思うと、昼間見た第十四の影の顔のなさも、別の意味を帯びて見えてきた。
顔がまだないのではない。
どこかから移されるのを待っているのかもしれない。




