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やわらかな王の墓  作者: たむ


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第72話 白鈴の巡礼路

 井戸の歌の二番を聞いた翌朝、私は起きた瞬間、自分の膝を触っていた。


 昨夜、最後まで跪かなかった。

 頭ではそうわかっている。

 だが石へ触れかけた片膝の感覚だけが、まだ身体に残っていた。

 王都では、やりかけた動作すら記録に近いものになるのかもしれない。

 そう思うと、ひどく気味が悪かった。


 北区記録倉の朝はいつも通りだった。

 荷の音、紙の音、誰かが湯を注ぐ音。

 けれど私は、その“いつも通り”が前より少し信用できなくなっていた。

 井戸が席を呼び始めた以上、普通の朝もまた、少しずつ役へ寄せられていくのではないかと思えてしまう。


 サラは私の顔を見るなり、何も言わずに黒パンを半分よこした。

「食べな」

「顔色でわかるのか」

「井戸のあとに食べられなくなる人は多い」

「経験則か」

「北区はだいたい経験則でできてる」


 私はパンをちぎって口へ入れた。

 固い。

 だが固さがありがたい。噛めるものは、まだ現実の側にある気がした。


 午前の半ば、宮城から使いが来た。

 今度は灰銀の使いではなく、黒衣の若い埋葬官だった。

 彼は入ってくるなり、胸に手を当て、一礼した。


「次官殿より」

「また王命か」

 私が言うと、彼は少し困ったように首を振る。

「いえ、今回は巡礼路の照会です」

「巡礼路」

 エナがすぐに反応した。

「白鈴の老人?」

「その可能性があります」


 私はパンを置いた。

「何があった」

「北東外縁の旧巡礼道にて、白鈴の音を複数回確認。加えて、路傍墓標のうち三基で供花の数えにずれ」

「また供花か」

「はい。それと」

 若い埋葬官は少しだけ声を落とす。

「路面に“跪き痕”が残っているそうです」


 私の膝の感覚が、また少しだけ冷えた。


 宮廷埋葬部へ戻ると、すでに簡易の地図が広げられていた。

 王都北東へ伸びる古い巡礼路。今は半ば廃れ、物流にも正式道にも使われていない。

 だが、王墓巡礼の古記録では何度か名前が出ていた道らしい。


「白鈴の巡礼路」

 リシェが地図を指で押さえた。

「俗称ですが」

「いかにもだな」

 私が言うと、ダフが答える。

「由来は単純です。昔、ここを歩く巡礼は皆、白鈴を杖に下げた」

「王墓巡礼の老人と同じ」

「ええ」


 エナは地図を見つめたまま、静かに言う。

「師匠の帳面にもあります。ここは“井戸を持たぬ巡礼道”」

「井戸を持たない?」

 私は眉をひそめた。

「何だそれ」

「普通、古い道には必ず水場があります。ですがこの道は、井戸の代わりに墓標が水の役をする、と」

「さらに意味がわからない」

「わからないまま記録されていました」

 エナは少しだけ肩をすくめる。

「師匠らしいです」


 出発はすぐに決まった。

 王都外門を抜け、北東外縁へ。

 大規模な調査ではない。

 リシェ、ダフ、エナ、私、それに護衛二名。

 王都の異変は増えているのに、どの現場も人手が足りない。

 結局、少人数で継ぎ目を見に行くしかないのだ。


 外門を抜けると、空気の質が少し変わる。

 王都の石の匂いが薄れ、土と枯草の匂いが出てくる。

 それだけで少し楽になる自分に気づいて、私は苦笑した。

 外へ出たところで、この国の異常から逃げられるわけではないのに。


 巡礼路の入口は、低い石柱が二本立つだけの細道だった。

 車は通れない。人が二列で歩くのも難しい程度の幅。

 路傍には白い小花が、季節外れにぽつぽつ咲いている。

 その白さが、供花を連想させて嫌だった。


「静かだな」

 私は言った。

「巡礼路はそういうものです」

 ダフが答える。

「人に使われなくなってからのほうが、かえって道の気配が残る」

「詩人みたいなこと言うな」

「埋葬官ですので」


 しばらく歩くと、本当に鈴の音が聞こえた。


 からん。

 軽い。

 けれど、骨鈴の乾いた音とは違う。

 もっと澄んでいて、遠い水音に似ている。


「白鈴」

 エナが小さく言った。


 路の先、曲がり角の向こうに、黒い背が見える。

 杖。

 細い体。

 白い鈴。


「本当にいるのか」

 私が呟くと、その背は振り向きもせず、ただ少しだけ歩みを遅めた。

 追えば追いつけそうで、でも決して縮まらない距離を保つ。

 王墓巡礼の老人だ、と言われれば、そうとしか思えなかった。


「追う?」

 護衛の一人が問う。

「だめです」

 エナが即座に言った。

「追えば、道のほうを見失う」

 

 言われて、私は足元を見た。

 道の土に、浅い跪き痕が残っている。

 人が片膝をついた形。

 ひとつではない。

 数歩おきにある。

 まるで誰かが、歌に合わせて少しずつ膝を折りながら進んだみたいだった。


「……最悪だな」

「ええ」

 エナが答える。

「井戸の歌の二番が、路へ漏れているのかもしれません」


 そのとき、路傍の最初の墓標へ着いた。

 小さい。

 腰の高さほど。

 供花が五本並んでいた。

 だが、地図の観測記録では四本のはずらしい。


「一本多い」

 ダフが言う。

「誰が」

「路は誰のものでもないので、わかりません」

 

 私はその墓標を見た。

 読める気がする。

 近づく。

 刻字は摩耗している。

 だが、その上に置かれた花の並びが、文字の代わりみたいに意味を持っていた。


「……“水のない路では、跪きが井戸になる”」

 私は読んだ。

「“膝を置いた場所に、次の声が溜まる”」


 全員が黙る。

 私は白鈴の遠い音を聞きながら、昨夜の井戸の歌を思い出した。

 王都の井戸だけでは足りず、今は巡礼路そのものが、跪きの痕を井戸の代わりにし始めている。


「だから井戸を持たぬ巡礼路」

 エナが低く言う。

「井戸がないのではなく、人の所作が井戸の代わりになる」

「嫌すぎるな」

「はい」


 白鈴の音は、また遠くで鳴った。

 追わなくても、あの老人はたぶんこちらを導いている。

 水なき道。

 跪きが井戸になる道。

 そこへ、王都の歌が漏れ始めている。


 私は自分の膝へ、無意識に手を当てた。

 井戸の前だけではない。

 今や路そのものが、誰かに跪きを要求している。

 王命は、王都の中だけに留まらなくなり始めていた。

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