第71話 井戸の歌の二番
その夜、私はまた古井へ呼ばれた。
今度は正式観測ではなく、緊急聴取。
理由は単純で、盲目司祭セファが「歌が変わった」と言ったからだ。
彼自身は井戸の前へ来ていない。
それでも祈祷院の壁越しに、水の響きの変化だけは取れるらしい。
王都の人間の感覚は、ときどき本当にどうかしている。
古井の中庭へ着くと、前夜より灯りが少なかった。
意図的に減らしているのだろう。
井戸の歌を聞くには、光が邪魔になることがあると女司祭が言った。
ますます人間向きの説明ではない。
「今日は」
エナが私の横で言う。
「歌の“二番”が来るかもしれません」
「二番」
「師匠がそう呼んでいました」
「歌に番があるのか」
「同じ歌の奥に、もう一段深い意味が重なるときがあります」
嫌な民謡みたいだった。
だが、王都の怪異はたいていそういうふうに親しげな呼び名を持つ。
親しげであるほど、実際は近づきたくない。
私は北側に立った。
前夜と同じ位置。
骨鈴。
水気のない黒。
沈んだ空。
そして、歌。
始まりは前と同じだった。
女とも子どもともつかぬ声。
遠くから浮いてくる旋律。
だが今夜は、その下の低い唸りが最初からはっきりしている。
歌と伴奏のように重なっているわけではない。
むしろ、歌の底で別の何かが口を開きかけている。
「来る」
エナが小さく言った。
私は井戸の縁へ目を落とした。
刻線は前夜より湿って見える。
新しい文がまた増えていた。
「……“一度目は名を呼ぶ”」
私は読んだ。
「“二度目は席を呼ぶ”」
その一文が終わる前に、歌が変わった。
旋律は同じだ。
だが、言葉のないはずの歌の中へ、はっきりと“呼びかけ”の形が混ざる。
誰かの名前を呼んでいるわけではない。
もっと空っぽで、それゆえに危険な呼び方だ。
名ではなく、位置を呼ぶ。
立つべきところ。埋まるべきところ。跪くべきところ。
そういう“席”だけを、歌が探っている。
「二番だ」
エナが言う。
「何て」
女司祭が問う。
「名ではなく、席を呼んでいます」
私は喉の奥が冷えるのを感じた。
歌が私を呼んでいるのではない。
“王の代わりに跪く者”という席を呼んでいる。
その席へ、私の形が合うかどうかを確かめている。
「リョウ」
エナの声が近い。
「まだ動かないで」
「わかってる」
だが今夜は、前夜よりもっと身体が引かれる。
王命のせいだけではない。
歌そのものが、“そこ”を指している。
跪く位置。
北側の石の、井戸に最も近い一点。
そこが空いていて、そこだけが妙に冷たい。
「読んで」
ネムが後方で言う。
「何を」
「歌の二番を」
「歌そのものは言葉じゃ」
「あなたには違うでしょう」
そのとおりだった。
耳で聞く限り、ただの旋律に近い。
だが頭の奥へ来る意味は、もうはっきりしている。
私は目を閉じず、井戸を見たまま、その意味を拾った。
「……“空いた耳に、空いた膝”」
私は言った。
「“王が受けぬなら、位だけでも受けよ”」
女司祭が骨鈴を強く鳴らす。
だが歌は止まらない。
むしろ、その音を飲んで続く。
「まだある」
私は自分の声が少し遠くなるのを感じながら言った。
「“名は要らぬ。顔も要らぬ。まず跪く形を置け”」
その瞬間、私は理解した。
井戸は私という個人を欲しているのではない。
まず形。
跪く姿勢。
王の代わりに受け取る“位”だけを先に置けと言っている。
名も顔もあとでよい。
それは第十四の影と同じ理屈だった。
席が先で、人はあと。
「だめ」
エナが初めて、はっきりと強い声を出した。
「それに従わないで」
私は我に返る。
歌はまだ続いている。
井戸の奥、水に映る王の像の後ろで、第十四の影がさらに濃くなっている。
影は顔を持たない。
だが今夜は、膝だけが先にある。
誰かが跪いたあとの残像みたいな、空の姿勢だけが井戸の中で待っていた。
「……最悪だな」
私は喉の奥で言った。
「ええ」
エナの声も少し震えていた。
「正しい感想です」
歌の二番。
一度目は名を呼び、二度目は席を呼ぶ。
王都の井戸は、もう個人ではなく、役の形そのものを選び始めている。
王が半分しか受け取れないから、その残り半分の“所作”だけを別の誰かへ置こうとしているのだ。
私はその夜、最後まで跪かなかった。
だが、跪かなかったことと、呼ばれなかったことは違う。
井戸の歌は、確かに私の前にひとつの空席を置いていた。
そしてその空席は、前夜よりもずっとはっきり、私の形に近づいていた。




