第70話 失われた名前の一覧
古井の観測の翌朝、私は北区記録倉ではなく、その隣の封鎖棚庫へ呼ばれた。
棚庫は、普通の記録倉よりさらに乾いている。
窓はなく、扉は二重。
中へ入ると、紙と石灰と古い木の匂いがした。
北区の中でも“忘れられすぎると困るもの”だけが置かれる場所だと、サラが言っていた。
そこでサラが待っていた。
机の上には、紐で綴じられた薄い冊子が一冊。
表紙に題はない。
ただ、小さく黒い点が三つ打たれているだけだった。
「嫌な本だな」
私は言った。
「題がない」
「題を付けると、誰かが探しやすくなる」
サラが答える。
「だから北区は、探されたくないものほど無題にする」
「それ、隠蔽では」
「保管だよ」
エナとネムも来ていた。
ネムは冊子を見るなり、露骨に嫌そうな顔をした。
「本当に出すんですか」
「今さら出さないほうが危ない」
サラが言う。
「井戸に映るなら、棚の中ももう安全じゃない」
私は冊子へ手を伸ばしかけ、止めた。
「何なんだ」
「失われた名前の一覧」
サラが答えた。
私は思わず手を引っ込めた。
語感だけで嫌すぎる。
「死者名簿か?」
「違う。死者でも生者でもなく、“記録から名だけが抜けた者”の一覧」
「そんなの作ってたのか」
「北区だからね。余りはここへ来る」
私は椅子へ腰を下ろし、冊子を見た。
無題。
黒点三つ。
名前を一覧する冊子なのに、題そのものが名を持たない。
徹底している。
サラが表紙を開いた。
中の頁には、人名欄の代わりに空白が並んでいた。
その右に、生年、出所、最後に確認された役割、供花数、死期観測の有無。
名前だけが抜けている。
「……気味悪いな」
私は率直に言った。
「でしょう」
サラが答える。
「名前がないと、人は記録の中で役だけになる」
「知ってる」
「だから残してる」
最初の頁の一番上。
“王都外縁南区、塩量り。男。供花一。影接触後、名脱落。”
次。
“祈祷院下仕え。女。井戸前昏倒後、名脱落。”
さらに。
“宮城兵。男。骨灯事故後、名一部脱落。”
昨日見た、名を失いかけた兵士と似た記録もある。
「これ、いつから」
私は問う。
「正式には存在しない帳面だからね」
サラが答える。
「北区で継ぎ足してきた。十数年分」
「長いな」
「王都は昔から少しずつ欠けてる」
エナが頁を繰り、一箇所で止まった。
「これ」
「何だ」
私は覗き込む。
そこには、文字が途中から薄くなった一行があった。
“宮城東副墓付近発見。子。名与え前。仮称……”
その先だけが、うまく抜けている。
私は息を止めた。
「君か」
エナは少しだけ目を伏せた。
「たぶん」
「“仮称”の先が消えてる」
「はい」
「仮の名前があったのか」
「知りませんでした」
その声に、わずかな揺れがあった。
エナは自分の本当の名を伏せている。
だがそれ以前に、与えられかけた仮の名すら、この一覧から抜けている。
この国は、どこまで人の名を削るのだろう。
「読めますか」
ネムが問う。
「この抜けた部分」
「やってみる」
私は空白へ目を落とした。
名前そのものは見えない。
だが、抜けた跡の輪郭から意味が立つ。
「……“与えるな”」
私は言った。
「“この子は後に数えへ触る”」
サラが低く舌打ちした。
「やっぱり」
「知ってたのか」
「北区は、こういう気配で保管する場所だよ」
「最悪だな」
「ええ」
私はその一行から目を離せなかった。
エナは名前を持たぬ埋葬官見習いとしてここまで来た。
だが最初から、“名を与えるな”とどこかで判断された可能性がある。
王墓の近くで見つかった子。
数えへ触る子。
だから名を薄くされた。
それは保護だったのか、管理だったのか、もう区別がつかない。
さらに頁をめくると、空白の一行がいくつも続く。
職だけがある。
供花数だけがある。
死期観測だけがある。
人名の欄だけ、風に飛ばされたように軽い。
「王都って」
私はぽつりと言った。
「こうやって、人を“名無しの一覧”にして支えてるのか」
「はい」
ネムが答える。
「そうしないと、順番に乗せにくい者がいますので」
「嫌な合理性だな」
「王都は合理性の顔をした迷信でできています」
その言葉は、妙に真実だった。
失われた名前の一覧。
それは名簿ではなく、名が抜けたあとに残るものの帳面だった。
役。供花数。影接触。井戸昏倒。
名を失ってもなお、人は記録として残る。
そして、王都はその残り方にだいぶ慣れてしまっている。
私は自分の名前を、また心の中で一度だけ確かめた。
真柴遼。
この一覧へ載る日が来るのかもしれない。
そう思うだけで、背中の真ん中が冷えた。




