第69話 井戸に映る王
改竄された記録帳を閉じたあと、しばらく誰も席を立たなかった。
名なき同行者。
後に王の数えへ混じる。
その一文は、読み終えた瞬間に過去の記録ではなく、現在の脅しへ変わっていた。
エナは表情を崩さなかったが、指先だけが白くなるほど帳面の端を押さえている。
私は彼女へ何か言うべきか迷った。
だが、ここで安い慰めを差し込むのは違う気がした。
王都では、正しい沈黙のほうが言葉よりましなときがある。
その沈黙を破ったのは、リシェだった。
「今夜、古井の観測が入ります」
「今夜?」
私が顔を上げる。
「ええ。王命に基づく初回の正式観測です」
「最悪の初仕事だな」
「同意します」
ネムがすでに書式を整えている。
「立会いは宮廷埋葬部、監査局、祈祷院から各一名。加えて読手」
「俺か」
「あなたです」
「もうその返しにも慣れてきた自分が嫌だな」
エナがようやく帳面から手を離した。
「私も同行します」
「記録保持者として認められている」
リシェが答える。
「ただし、今夜は見るより聞くことを優先して」
「はい」
古井。
王がもう聞けなくなった歌。
私が跪けと頼まれ、そして命じられた場所。
王都へ来てから、そこへ戻ることは何度も予感していた。
今夜、それが正式な形を取る。
日が沈み切る前、私たちは宮城地下の古井へ向かった。
前と同じ中庭。
前と同じ石囲い。
だが今夜は、その周囲に白い布が張られ、灯りが増え、井戸の縁には小さな骨鈴が四つ置かれている。
祈祷院から来たのは、盲目司祭セファではなく若い女司祭だった。
目は見えているが、やはり声は低い。
「聴取位を整えます」
彼女が言う。
「異邦人は北。埋葬官見習いは東。監査局は後方。祈祷は南」
「位って」
私は言う。
「立つ場所で違うのか」
「聞こえるものが違います」
「王都だな」
「はい」
私は北側へ立った。
井戸は黒い。
底は見えない。
前に来たときよりも、井戸そのものが少し近い感じがした。近づいたのは私なのに、向こうが距離を詰めてきたみたいだった。
骨鈴がひとつ鳴る。
女司祭が短く祈りの句を唱える。
エナが記録帳を開く。
私は、無意識に膝の力が少し抜けるのを感じた。
跪け、と言われたことを身体が覚えている。
「まだです」
エナが小さく言った。
「今は立って」
「わかってる」
やがて井戸の底から、あの歌が上がってきた。
前より近い。
前よりはっきりしている。
女とも子どもともつかない声。
けれど今回は、旋律の奥にもうひとつ別の気配があった。
低い、ほとんど息のような唸り。
歌の下で、誰かがじっと耳を澄ましているみたいな気配だ。
「聞こえる」
私は言った。
「何を」
女司祭が問う。
「歌。あと、下にもうひとつ」
「意味は」
「まだ」
私は井戸の縁の刻線を見た。
前と同じ文がある。
深きものより汲むべからず。
名ある水は上へ、名なき水は下へ。
王都の渇きはここで選別される。
だが、その下に、前はなかった細い水染みのような線が増えている。
「増えてる」
「読めますか」
エナが言う。
私は頷き、線を追った。
「“王の顔を水に返すな”」
その瞬間、井戸の水面が見えないはずなのに、私は何かが映った気がした。
黒い水の奥、揺れる顔。
痩せた男。
半分しか目を開かない王。
だが、映っていたのは王そのものではない。
王の“像”だけが、水の側へ薄く落ちている感じだ。
「井戸に」
私は喉の奥で言った。
「王が映ってる」
「見えるのですか」
女司祭の声が少しだけ揺れた。
「顔のようなものが」
「像、ですね」
エナが記録しながら言う。
「続けて」
私は井戸を見つめた。
歌は続いている。
低い唸りも。
水に映る王の顔は、こちらを見ていない。
ただ、ゆっくり沈みかけている。
王が井戸を聞けなくなったのではない。
王の“像”の一部が、もう井戸側へ落ちているのかもしれなかった。
私はまた刻線を読む。
「“耳が届かぬとき、顔が先に落ちる”」
女司祭が息を呑む。
ネムの筆が速くなる。
エナは顔を上げない。だが声だけが少し硬い。
「つまり」
「王の受け取りより先に、王の像だけが井戸へ流れてる」
私は答える。
「だから都の人間は、王本人を見ていても、別の“王らしさ”を先に感じるのかもな」
「半身の像」
ネムが呟いた。
「井戸に映る王、か」
歌が急に近くなった。
私は反射的に一歩前へ出そうになり、そこで止まった。
いや、止まれなかった。
膝が勝手に折れかける。
王命。
跪け。
その命令が、言葉ではなく身体のほうから持ち上がってくる。
「リョウ」
エナが強く呼んだ。
「まだ」
だが、歌の底から別の声が来た。
歌ではない。
もっと乾いた、低い声。
見よ。
私は息を止めた。
井戸の中の王の像が、今度はこちらを向いた。
半分しか開かない目が、水の中でゆっくり開く。
そして、その顔の輪郭の後ろに、もうひとつ別の影がある。
第十四の影。
顔のない若い像が、王の後ろで水へ映っていた。
「……っ」
私は一瞬、本当に膝をついた。
石に片膝が当たる。
その衝撃で我に返る。
完全には跪いていない。
だが半歩、入ってしまった感覚があった。
骨鈴が鋭く鳴る。
女司祭が祈りの句を強く唱える。
エナが私の袖を掴み、引いた。
「戻って」
「今」
「いいから」
私は後ろへ半歩下がった。
歌が少し遠のく。
井戸の像も揺れて崩れる。
だが見えたものは消えなかった。
王の像の後ろに、第十四の影が映っていた。
井戸は王だけを映していない。
次に来る席の輪郭まで、もう水の中に入っている。
観測が終わったあと、私はしばらくまともに立てなかった。
井戸に映る王。
耳が届かぬとき、顔が先に落ちる。
そしてその後ろに立つ、第十四の影。
都の水は、すでに王の“次”を映し始めている。




