第66話 生者のふりをする貴族
第十四の影を見た夜、私は北区記録倉へ戻っても、しばらくまともに座っていられなかった。
回廊の角で、顔の決まらない影が一度だけこちらを向いた。
あれは人ではない、と言い切るのは簡単だ。
だが王都では、人でないものが人の席へ近づくことのほうが厄介だ。
人でないからこそ、あとから誰かをぴったり当てはめられる。
サラは私の顔を見るなり、何も聞かずに薄い茶を差し出した。
「見たね」
「何でわかる」
「見た顔してる」
「嫌な能力だな」
「倉番は荷の崩れ方で中身を当てるのが仕事だから」
私は茶を受け取り、一口だけ飲んだ。
味は薄い。
だが熱が喉を通る感覚だけで、少しだけ現実へ戻れる。
「影を見た」
私は言った。
「第十四っぽいやつ」
「っぽい、で済ませるには重そうだ」
「顔が決まってなかった」
サラは小さく息を吐いた。
「じゃあ、もう外へ出てる」
「前から出てたのか?」
「王都じゃ、そういうものは“見えた時点から存在したことになる”」
それもまた、この国らしい。
翌朝、宮廷埋葬部へ戻ると、妙な客が来ていた。
客というより、立会人。
濃い青の上衣を着た中年男で、襟と袖に銀糸が入っている。太ってはいないが、食べることと座ることに慣れた身体だ。
顔色は良い。
良すぎるほど良い。
王都にいる人間にしては血色がよく、爪もつやがあり、歩き方も軽い。
それが逆に、ひどく不自然だった。
「辺境諸侯会議の代理だ」
ダフが小声で教える。
「名はヴァルド伯」
「貴族か」
「はい。最近よく宮城に出入りしている」
「何しに」
「生きていることを証明しに」
私は顔をしかめた。
「どういう意味だ」
「そのままです」
ヴァルド伯は埋葬部の記録卓に立ち、何やら声高に話していた。
「見ればわかるだろう。私は生きている」
「記録上の死期に関する照合です」
リシェが冷たく返す。
「死期?」
私はダフを見た。
ダフは紙束を一枚抜き、私へ見せた。
そこには貴族名簿と並んで、“死期観測保留”という欄がある。
信じたくない語だが、もう驚くのも疲れてきた。
「王都では、ときどきあります」
ダフが言う。
「まだ生きているのに、記録の側が先に“死へ近い”と判断する者」
「それで本人が来る?」
「はい。生きているふりを、ではなく」
「生きていることを?」
「そうです」
なるほど、そういう意味か。
私はヴァルド伯を見た。
血色がよく、声が大きく、手振りも豊かだ。
生者のふりをしているように見えるのではない。
あまりに“生き生き”しすぎていて、逆にその必死さが不自然なのだ。
「死期観測なんて迷信だ」
伯は言う。
「私は朝も食べ、馬にも乗り、昨夜も寝た」
「その記録は?」
リシェが問う。
「侍従がいる」
「王都外での夜間観測票は?」
「そんなもの知らん」
リシェは微動だにしない。
この手の相手には慣れている顔だ。
「伯爵家領では、井戸前での失神者が三名」
彼女が紙を読む。
「供花の偏りが一件。骨魚の低空巡回が二夜続き。加えて、伯の肖像への白花供えが四度」
「領民の気迷いだ」
「ええ。あるいは、領民が伯の死期を伯より先に感じている」
ヴァルド伯の顔から、血の気ではなく、余裕だけが少し引いた。
私はその変化を見た。
やはりこの男は、ここへ“記録に対抗しに”来ているのだ。
「生者のふりをする貴族、って感じだな」
私は小さく呟いた。
エナがちらりと私を見る。
「声が少し大きいです」
「聞こえたか」
「少し」
「まあいい。正しいので」
それを聞いたダフが、わずかに口元を動かした。笑ったのかもしれない。
そのとき、ヴァルド伯が急にこちらを見た。
「そこの男」
「俺か」
「異邦人だな」
「そうだ」
「墓を読むと聞いた。なら見ろ。私が死んでいるように見えるか」
埋葬部の空気が少し止まった。
リシェが制止しようとしたが、その前に私は伯を見てしまっていた。
顔色。姿勢。呼吸。
生きている。
だが、肩のあたりが少し薄い。
王弟の笑みとも、十三王の半身とも違う。
もっと粗く、輪郭が先に削れ始めている感じ。
「……まだ生きてる」
私は答えた。
「だが」
「だが何だ」
「後ろが少し空いてる」
伯の顔が固まった。
「何だと」
「背中の後ろ、席ひとつ分くらい」
「ふざけるな」
「ふざけてない」
言ったあとで、自分でも妙な表現だと思った。
だが、そうとしか見えなかった。
この男の後ろには、すでに“いなくなった後の空間”がうっすらできている。
リシェがすぐ紙へ追記する。
「“本人、生存。ただし背後空席感あり”」
「その記録、嫌すぎるな」
私が言うと、彼女は淡々と返した。
「埋葬部ですので」
ヴァルド伯は顔を歪め、何か言い返しかけたが、結局言葉にならなかった。
彼は生きている。
だが、王都の記録と埋葬部の目と、たぶん領民の供花も、彼の“次”をもう見始めている。
この国では、死は身体から始まるとは限らない。
席が空き、供花が集まり、記録が先に動き、人があとから追いつくこともある。
ヴァルド伯は最後に荒く息を吐き、吐き捨てるように言った。
「こんな都は狂っている」
「ええ」
リシェが即答した。
「今さらです」
それ以上、誰も何も言わなかった。




