第65話 第十四の影
燻蒸室から戻るころには、王都はもう夕方を越え、夜の縁へ入りかけていた。
埋葬部の回廊には灯りが増え、白い花の影が石壁に細く落ちる。
私は少し疲れていた。
盲目司祭の言葉、過去を食べる虫、余った名。
ひとつひとつが別方向に嫌で、だが全部が同じ王都の仕組みを指している。
「今日はここまでか」
私が言うと、エナはすぐには答えなかった。
代わりに、廊下の先を見ている。
「どうした」
「……見てください」
彼女の視線を追う。
長い回廊の向こう、人影がある。
王城の使いか、侍従かと思った。
違う。
距離はあるのに、輪郭がおかしい。
服の形は王都の衣に似ている。背格好は若い男。
だが、影だけが少し先に歩いている。
私は立ち止まった。
「何だあれ」
ダフも足を止める。
「誰かいる」
「いる、というより」
エナが低く言った。
「影です」
その人影――いや、影は、廊下の曲がり角の手前で一度だけこちらを向いた。
顔は見えない。
だが、顔がないのではなく、“まだ決まっていない”感じがする。
目鼻立ちが定まる前の空白みたいな顔だ。
「第十四」
私は思わず口にしていた。
その瞬間、影が揺れた。
逃げるでもなく、崩れるでもなく、水面の像が風に乱れるように。
そして次の瞬間には、廊下の角の向こうへ消えていた。
「追うな」
ダフが即座に言った。
「何で」
「追った先で、誰として記録されるかわからない」
「どういう理屈だよ」
「王都ですから」
だが、その制止は本気だった。
私も足が前へ出なかった。
今のものは、人ではない。
少なくとも、完成した人ではない。
もっと席に近い何かだ。
「見たか」
私はエナへ問う。
「はい」
「何に見えた」
「第十四の影」
「そのままだな」
「そうとしか言いようがありません」
ダフはすでに手帳へ何かを書きつけている。
「時刻、場所、立会い三名、像の揺らぎあり、顔未定、王格付着の可能性」
「そんな項目あるのか」
「増えました」
「最近?」
「はい」
最近。
この国の怖いことは、最近から制度化される。
私は消えた角を見つめた。
さっきの影は若かった。
王より若い。王弟よりもさらに少し若いように見えた。
だが、性別や顔立ちは最後まで決まらなかった。
“誰か”ではなく、“第十四”という席の影が先に廊下を歩いている。
そういう感じだった。
「箱だ」
私は呟いた。
「埋葬塔の保留箱」
「はい」
エナが答える。
「人になる前の王格」
「それが外へ出てきてる」
「あるいは、最初から外に薄く滲んでいたのが、ようやく見える濃さになった」
その言い方に、私はぞっとするより先に納得してしまった。
王都の異常は、突然起きるのではない。
先に薄くあり、それが見える順番へ入ったとき、ようやく人間が騒ぐ。
墓標の増える廊下と同じだ。
「第十四の影、か」
私は自分で繰り返す。
「死んだって記録され、王格が付着して、今はまだ顔が決まってない」
「はい」
エナの声も少しだけ硬い。
「だから危ない」
「何が」
「誰かが、それにぴったり合ってしまうかもしれない」
古い王冠の傷を思い出した。
冠は頭を選ばない。頭が冠に合わせられる。
なら影も同じなのだろう。
先に“第十四”という席の輪郭だけがあり、そこへ後から人が合わせられる。
その人が誰になるかは、まだ決まっていない。
あるいは、複数がそこへ引かれ始めている。
回廊の灯りが少しだけ揺れた。
風はない。
なのに、影が動く。
私は無意識に自分の足元を見た。骨魚の影ではない。ただの灯りの影だ。
それでも今は、影というものが全部、席の予兆に見える。
「記録します」
ダフが言った。
「ただし正式には“未確認の人影”」
「弱いな」
「王都の正式記録はいつも弱いです」
私は苦笑しかけ、やめた。
正式記録が弱くなければ、たぶん都はもっと早く壊れるのだろう。
第十四の影。
それは怪異というより、席が人より先に歩き始めた景色だった。
王都の病は、ついに目に見える形で回廊を歩き始めている。
そう思うと、灰色の低い天井が、また少しだけ近づいた気がした。




