第64話 過去を食べる虫
祈祷院を出るころには、日がだいぶ傾いていた。
王都の夕方は、明るさが減るというより、色が失せる。
灰色の天井が下がり、建物の輪郭だけが固くなる。
骨魚の影が落ちなくても、街そのものが影へ近づく時間だ。
埋葬部へ戻る途中、ダフが急に立ち止まった。
「寄る場所がある」
「またか」
私が言うと、彼は真顔で頷いた。
「はい。今のうちに見せるべき」
「何を」
「虫です」
最悪だった。
王都で突然“虫”と言われて、良い展開になるはずがない。
連れていかれたのは、埋葬部と記録庁のあいだにある古文書燻蒸室だった。
外見は倉庫に近い。
だが中は暖かく、薬草と乾燥した土の匂いが濃い。
棚の上には封じられた古文書箱が並び、中央には浅い石槽がいくつも置かれている。
その中で、灰色の粉のようなものがゆっくり動いていた。
「……これか」
「これです」
ダフが答える。
近づくと、それは虫だった。
小さい。
米粒ほどの大きさで、色は紙と同じ灰白。
だから最初は粉に見える。
だがよく見ると、紙片を食べるように口を動かしている。
「紙魚みたいなものか」
私は言った。
「少し違います」
エナが石槽をのぞき込む。
「これは、過去を食べる虫です」
「もっと嫌な名前だったな」
「埋葬部ではそう呼びます」
ダフが一枚の古い写本を見せた。
端が虫食いにやられている。
普通の虫食いなら、穴が空くだけだ。
だがこの写本は違った。
穴の周囲だけでなく、文章の文脈そのものが欠けている。
残った文字列を読んでも、そこに書かれていた“過去”の筋がうまく立ち上がらないのだ。
「どういうことだ」
私が問うと、ダフは答えた。
「紙だけでなく、記録の連なりを食べる」
「意味を?」
「はい。食われた箇所は、穴になるだけでなく、“前後がつながりにくくなる”」
私はぞっとした。
それは単なる害虫ではない。
歴史の接続そのものを噛み切るものだ。
「いつから」
「昔からいる」
ダフが言う。
「ただ、最近増えました」
「またそれか」
「王都ですので」
エナが石槽の虫を見つめている。
「骨魚の影が強まる年は、増えやすいと聞きます」
「何で」
「影を踏んだ紙が、食べやすくなるので」
「意味がわからない」
「私も全部は」
私は虫の群れへ目を近づけた。
虫たちは、槽に入れられた紙片の上をゆっくり動いている。
紙が少しずつ薄くなり、文字のまわりが曖昧になる。
その光景を見ているだけで、自分の記憶まで少し薄まるような気がした。
「これも読めるのか」
ダフが訊く。
「虫を?」
「食われた痕を」
私は渋々、虫が食った写本の穴の縁を見る。
もともとの文は古い王墓巡礼記録らしい。
ところどころ読める。
だが、欠けたところを目で追うと、穴の形そのものから意味が浮いてくる。
「……“忘れろ”」
私は言った。
「“順を古くするため、忘れろ”」
ダフの目つきが変わる。
「続けて」
「“余った名は虫へ”」
「余った名」
エナが低く繰り返す。
「墓標の増える廊下と同じですね」
「たぶん」
私は息をつきながら言う。
「王都は、余った名を全部保管してるわけじゃない。捨てるか、虫に食わせるかしてる」
「過去を食べる虫、か」
ダフが呟く。
「便利な言い方だ」
「王都では便利な言葉ほど長生きするんだろ」
「ええ」
石槽の端に、小さな木札があった。
虫の管理札らしい。
そこに書かれた文字も読める。
――記録に穴あれば、先に原因を探すな。
――穴のまわりで今も動くものを数えよ。
「なるほど」
私は言った。
「過去が欠けたとき、まず犯人探しじゃなくて、“今その穴を利用して動いてるもの”を見ろってことか」
「埋葬部ではそうします」
ダフが答える。
「過去は戻らないので」
ひどく実務的で、ひどく悲しい考え方だった。
失われた記録を嘆くより、今その穴から何が漏れ、何が入り込んでいるかを見る。
王都はそうやって延命してきたのだろう。
私は石槽の虫を見ながら、第二王妃の指輪や墓標の増える廊下を思い出していた。
記録の抜け。余った名。返されなかった遺物。
王都の過去は、ただ自然に失われたのではない。
必要なだけ食われ、都合よく曖昧にされ、その穴のまわりへ今の制度が立っている。
「この虫、止められるのか」
私が問うと、ダフは少し黙ってから言った。
「完全には」
「殺せない?」
「殺しても、次の虫が来る」
「じゃあどうする」
「穴の形を記録する」
それが王都の答えだった。
失われることそのものまで記録する。
完全には守れないから、食われた跡を数える。
ひどく埋葬部らしい発想だと、私は思った。




