第63話 祈祷院の盲目司祭
王都の市場で欠けた貨幣を見たその足で、私たちは祈祷院へ向かった。
リシェの指示だった。
「耳」という語が井戸、水、勅令、貨幣にまで繰り返し現れる以上、祈祷院の見解を無視できない、という。
王都の役所はたいてい互いを信用していない。
だが、信用していないからこそ、こういうときだけは嫌々参照し合う。
それもまた王都の均衡の保ち方らしかった。
祈祷院は宮城の北西寄り、低い回廊を幾つか渡った先にあった。
外観は静かだ。
高い塔はなく、低い屋根と長い壁だけが続く。
門前には水盤が三つ並び、そのいずれにも白い花びらが数枚浮いている。
王都では、本当にどこへ行っても花と水がある。
「祈祷院って、神殿みたいなものか」
私は歩きながら訊いた。
「半分は」
エナが答える。
「残り半分は?」
「王都の不調を言い換える場所です」
「それ、かなり重要じゃないか」
「はい。でも、責任はあまり持ちません」
なるほど祈祷院だった。
中へ入ると、香の匂いが静かに満ちていた。
埋葬部の香より、少し甘い。
壁には布が多く垂れ、灯りは弱く、音が吸われる。
人の声がひどく遠く聞こえる造りだ。
ここでは言葉そのものを薄くして、祈りらしく見せているのかもしれない。
案内されたのは、院の奥にある小さな応接間だった。
しばらく待たされ、やがてひとりの老人が入ってきた。
白に近い灰衣。
背は高くない。
髪は薄く、顔はよく乾いていた。
そして目には布が巻かれている。
盲目なのだと、すぐにわかった。
「盲目司祭、セファ」
ダフが小さく紹介した。
「耳に関することなら、この人が一番古い」
「嫌な紹介だな」
私は小声で言った。
「王都ですので」
ダフが答える。
盲目司祭は、こちらの位置を確認するようにゆっくり顔を向けた。
「異邦人がいると聞きました」
「います」
私が答える。
「声が若いですね」
「気持ちはそんなに若くないです」
セファの口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかもしれない。
「市場で欠けた貨を見たそうですね」
「はい」
「“王の耳に届かぬ貨は、端から減る”と」
「知ってるのか」
「祈祷院は、知っていなければ困ることだけを知っています」
私は正面からその布で覆われた目を見た。
見えていないはずなのに、こちらを正確に向いている感じがする。
目が閉じている人間特有の、逆にずれていない視線だ。
「王の耳って何なんだ」
私は単刀直入に問うた。
「比喩じゃないなら」
セファは少し首を傾けた。
「比喩です」
「でも本当にもなる」
「ええ」
「じゃあ答えになってない」
「王都の古い言葉は、たいてい最初そう見えます」
彼は手探りで卓上の小さな水杯を探し、指先で縁に触れた。
「王の耳とは、受け取る力です」
「声を?」
「声、願い、祈り、怨み、命令、相場、供花の偏り、井戸の歌」
「多すぎるな」
「本来、王は多くを受け取る器でした」
「でした、か」
「はい。今は欠けている」
私は身を乗り出した。
「欠けたのはいつから」
「はっきりとは」
「じゃあ何でわかる」
「受け取られなかったものが増えたからです」
その答えは、驚くほどわかりやすかった。
鐘が墓へ沈む。
勅令が割れる。
署名のない命令書が流れる。
貨幣の端が欠ける。
全部、受け取られなかったものの流れ先だ。
「王は半分しか目を開かない」
私は言った。
「耳も半分なのか」
「目と耳は、同じ傷ではありません」
セファが答える。
「目は見るため、耳は受け取るため。王都では、受け取る力のほうが先に壊れることがあります」
「なぜ」
「見ることは孤独でもできます。受け取ることは、他者が必要なので」
その言葉は、不意に重かった。
見るだけなら一人でもできる。
だが耳は、自分以外のものを自分の内へ通さなければ意味がない。
王が欠けるのは、そこなのかもしれない。
エナが低く問う。
「井戸の歌を、王は最近聞けないと言いました」
「そうでしょう」
セファは頷く。
「井戸は、王の耳が受けきれなかったものの溜まりでもありますから」
「じゃあ歌は」
「王のためのものではなくなりつつある」
私はその一言に、喉の奥が少し冷たくなった。
「じゃあ誰のものになる」
盲目司祭は、布の下で目を閉じたまま、私の声の位置を正確に向いた。
「次に跪く者のものです」
部屋が静まり返った。
エナの指先が、かすかに硬くなるのが見えた。
ダフも何も書かなかった。
誰も、その言葉を軽く扱えない。
「王命で、俺が跪けって言われてる」
私は言った。
「知っているから、そう答えています」
セファは言った。
「気をつけなさい、異邦人。王の代わりに跪くとは、王の代わりに聞くことではない」
「じゃあ何だ」
「王が受けきれなかったものに、あなたの形で入口を与えることです」
私は思わず椅子の背へ寄りかかった。
入口。
古い王冠の傷でも聞いた言葉だ。
裂けは拒みではなく入口。
王の耳もまた、欠けることで別の入口を作ってしまっているのかもしれない。
盲目司祭は最後に、小さく言った。
「王が半分しか目を開けぬなら、都は残りの半分を誰かに見せようとする。耳も同じです」
その誰かが、私かもしれない。
そう思った瞬間、王都の空気がまた一段、重くなった気がした。




