第60話 王宮厨房の噂
古い王冠の傷を見たあと、私はしばらく食欲というものを忘れていた。
王都ではただでさえ食事が“生きるための補給”に寄りすぎているのに、そこへ王冠は頭を選ばないだの、頭が冠に合わせられるだの聞かされれば、胃のほうも何かを拒否したくなる。
だが王都は、胃が拒否しても時間を止めてはくれない。
昼が来れば食事の時間は来るし、埋葬部の者たちは平然と匙を取る。
それが強さなのか、慣れなのかは、まだ私にはわからなかった。
宮廷埋葬部の者たちも、昼は王城厨房から運ばれる食事を取るらしい。
運ばれてきたのは、黒パン、薄い鳥肉の煮込み、白い根菜をつぶしたもの、塩水に近いスープ。
見た目は倹約だが、王都の食事にしては少しだけ丁寧だった。
「厨房が近いので」
ダフが言った。
「埋葬部は、王城厨房の残りのうち上等なものに回されることがある」
「言い方が雑だな」
私が答えると、彼は肩をすくめた。
「王城では、何が誰の残りかを知るのも仕事です」
私は鳥肉を口へ運んだ。
塩気は薄い。だが香草の匂いが少しある。
北区や宿場町よりはましだ。
それでも、うまい、とは言いきれない。
王都の食べ物はいつも、舌より機能へ向いている。
食堂の隅では、埋葬官たちが小声で何かを話していた。
噂だ、とすぐわかった。
王都の人間は大きな声で噂をしない。小さな声で、しかし信じられない速さで共有する。
「また広がってるな」
私が呟くと、エナが頷いた。
「厨房経由です」
「厨房?」
「王都で一番早く噂が回るのは、祈祷院か厨房です」
「何で」
「祈祷院は祈りを通して、厨房は食事を通して、すべての階層に触れるので」
なるほど嫌だった。
たしかに厨房は、王や側近から兵、下役、女官に至るまで全員の口へつながっている。
情報の流れとしては最強かもしれない。
「何の噂?」
私が聞くと、ダフは少し迷ってから答えた。
「王弟が、最近厨房へよく顔を出すと」
「それだけ?」
「王城の男が厨房へ出入りすること自体は珍しくない」
彼は煮込みを口に運びながら続けた。
「ですが、王弟は普段そういう人ではない」
「じゃあ何しに」
「食材を見るらしい」
私は顔をしかめた。
「食材?」
「ええ。井戸水の配分、塩、根菜、薬草、供花に使う白花の傷み方まで」
「王弟が?」
「そういう噂です」
白花の傷み方。
その一語に、私は匙を止めた。
供花は王都の言葉の代わりだ。
それを厨房で見ているというのは、ただの気まぐれではない。
エナが低く言う。
「厨房の供花は、王の食事に添えられる花と同じ系統です」
「食べるのか?」
「食べません。でも置かれます」
「意味は」
「王が飢えを引き受ける器であることの確認、と言う人もいます」
やはりこの国は、何をしても死と王権の話へ戻る。
「噂では」
ダフが続ける。
「王弟は厨房で、最近“水は誰の耳へ届く”と訊いたそうです」
「また耳か」
私は言った。
「王の耳、井戸の歌、勅令の裂け」
「はい」
「どこまでつながってるんだ」
「それを今、あなたが読まされているのでしょう」
食堂の奥で、若い埋葬官が別の者へ何か囁いた。
二人とも一瞬こちらを見る。すぐに逸らす。
私のことも、もう噂の核のひとつなのだろう。
異邦人。読手。王命を受けた者。王弟が顔を出す厨房。
どれも、王都の人間が放っておくには好都合すぎる材料だ。
「厨房の噂って、どこまで本当なんだ」
私はダフへ問う。
「半分」
「またそれか」
「残り半分は、噂が先に本当にしてしまいます」
比喩の遅れる土地。
いや、王都では遅れるどころか、噂のほうが先に現実を引っぱるのかもしれない。
「王弟が厨房を見ているなら」
エナが小さく言った。
「王の食事か、王に回る水か、供花の偏りか、そのどれかを疑っている」
「それって」
私は言う。
「兄を心配してる可能性もある?」
ダフは目を伏せた。
リシェは少し離れた席で、こちらへ聞こえているはずなのに口を挟まない。
その沈黙が答えの半分だった。
「可能性はあります」
エナが言った。
「でも、王都で“心配している”と“手を打っている”は、同じではありません」
「だろうな」
王宮厨房の噂。
低い声で、塩と薬草の匂いに混じって広がる話。
その中に、王弟の笑みがまた浮かぶ。
供花を持たない男が、厨房で水と花の傷み方を見る。
それがただの用心深さで終わるとは、あまり思えなかった。




