第59話 古い王冠の傷
王弟が去ったあと、検分室の空気はしばらく戻らなかった。
誰も彼の悪口を言わない。
言わないが、空気の硬さだけが残る。
王都では、本当に危ない相手ほど言葉より先に沈黙が残るらしい。
ユレナの検分はいったん中断となり、私はリシェに連れられて、埋葬部の奥にある小保管庫へ移された。
理由は「第二王妃の指輪と関連しそうな品を見せるため」。
その“関連しそう”が毎回重い。
小保管庫は埋葬塔ほど大きくない。
棚と箱が並ぶだけの乾いた部屋だ。
だが入口の上に刻まれた文字を見て、私はまた嫌な気配を感じた。
――王の頭に触れたものは、最後まで頭上へ残る。
――ゆえに傷は磨いても消えぬ。
「嫌な標語だな」
私が言うと、リシェが答える。
「標語ではなく注意書きです」
「さらに嫌だ」
部屋の中央の卓に、布をかけた台がある。
リシェはその布を慎重にめくった。
現れたのは、古びた王冠だった。
豪奢ではない。
金属の光もほとんど鈍い。
輪の上に四つの尖りがあり、それぞれの先に小さな石が嵌まっている。
問題は、そのうち一つの尖りの根元に、明らかな傷が入っていることだった。
凹みではない。
削られた跡だ。
誰かが意図的に刃を当てたような、細く深い傷。
「古い王冠」
リシェが言う。
「第三王の代から補修されつつ使われている」
「そんな使い回すものなのか」
「王都では象徴は簡単に捨てません」
「だろうな」
エナが傷のある部分へ視線を留める。
「これは前から?」
「ええ」
リシェが答える。
「ただし、記録では曖昧です。“第三王期に裂傷あり”“第七王期に再刻あり”“第十一王期に王格保持のため手を加える”」
「王格保持」
私は繰り返した。
「また曖昧な」
「王都ですから」
私は傷の入った王冠を見た。
王都のものは、どれも壊れてからが本番みたいだ。
無傷の象徴ではなく、傷を抱えたまま使われ続ける象徴。
その継ぎはぎの歴史が、今の王国を支えている。
「これも読めるか」
リシェが問う。
「たぶん」
私は傷へ近づいた。
金属なのに、ひどく冷たい。
井戸や指輪の冷たさとも少し違う。
もっと乾いていて、しかし長く皮膚へ残りそうな冷たさだった。
「触るな」
エナがすぐ言った。
「まず見て」
「わかった」
私は傷の輪郭を目で追った。
最初はただの削れに見える。
だが視線を固定すると、その線が文字へ変わる。
王都のひびや傷は、すぐそうなる。
「……“冠は頭を選ばない”」
私は読んだ。
ダフが記録の筆を止めた。
「続けて」
「“頭が冠に合わせられる”」
部屋が静まる。
私はさらに傷の深いところを読む。
「“裂けは拒みではなく、入口である”」
「入口」
エナが低く繰り返す。
「何の」
「まだある」
私は息を整えた。
王冠の傷の底が、別の色を持っている。
そこだけ、古い血のような暗さだ。
「“十三の傷は古く、十四の傷はまだない”」
誰もすぐには声を出さなかった。
十三の傷。
十四の傷はまだない。
王冠は、代ごとに“傷”を持つものとして数えられているのかもしれない。
「王の半分、墓の二重化、王格の早期付着」
ネムが疲れた声で言う。
「そこへ今度は王冠の傷ですか」
「多すぎるな」
私が言う。
「王都の符号が」
「多いときは、だいたいひとつのことを別の場所から言っています」
リシェが答えた。
王冠は頭を選ばない。頭が冠に合わせられる。
それは、王そのものの仕組みと同じだ。
席が先で、人があと。
冠もまた、人を選ぶのではなく、人のほうを削り、合わせ、傷を受け入れさせる。
「裂けは拒みではなく入口」
私は呟いた。
「傷が入ってるから壊れてるんじゃなくて、傷があるから次を受け入れる?」
「その可能性があります」
エナが言った。
「王冠も、墓も、同じ」
「嫌な構造だな」
「はい」
私は王冠から目を離せなかった。
古い王冠の傷。
十三の傷は古い。十四の傷はまだない。
つまり今、王都は十四のための“傷”をどこかへ作り始めているのかもしれない。
王墓だけではなく、王冠の側でも。
王弟の笑みがふと頭をよぎった。
供花を持たぬ男。
王のすぐ隣にいて、死へ自分の言葉を渡さない男。
王冠の傷を次に受けるのは誰か。
その問いの輪郭が、少しだけ別の光を帯び始めていた。




