第58話 王弟の笑み
ユレナの棺の検分が半ばまで進んだところで、検分室の外がざわついた。
誰かが来たのだとすぐわかった。
兵や埋葬官が道を空けるときの、抑えたざわめきだ。
リシェがわずかに眉を寄せる。
嫌な相手らしい。
扉が開いて入ってきたのは、王より若い男だった。
年は三十前後。
背が高く、顔立ちは王よりはっきりしている。目鼻立ちが整いすぎていて、最初の印象だけなら好ましくすら見える。
だが、口元に浮かんだ笑みがすべてを台無しにしていた。
柔らかい。穏やか。礼儀正しい。
そのどれにも見えるのに、少しも温度がない。
笑っている形を、必要だから作っている顔だ。
「失礼」
男は言った。
「話を聞いて、どうしても見ておきたくなりました」
誰だか問うまでもなかった。
空気の張り方が違う。
王都の中で、王のすぐ隣に立つ権利を持つ人間の歩き方だ。
セリオが入ってきていればすぐ制したのだろうが、今ここにはいない。
代わりにリシェが一礼した。
「王弟殿下」
王弟。
なるほど最悪だった。
男――王弟は検分台の棺を見て、少しだけ目を細めた。
「ユレナか」
「記録上は」
リシェが答える。
「慎重だ」
王弟は笑ったまま言う。
「埋葬部らしい」
彼の視線が、次に私へ来た。
そのときだけ、笑みの角度がほんの少し変わる。
興味だ。
獲物を見る目ではない。
だが、使い道を考える目ではある。
「あなたが例の異邦人」
「そう呼ばれてる」
「名は」
「真柴遼」
「リョウ」
王弟はその音を一度だけ確かめるように言った。
「兄上のお気に入りだと聞いた」
「言い方が悪いな」
「そうかな。王都では、気にかけられることは大抵不幸だ」
それは正しい。
正しいが、この男に言われると嫌味のように聞こえる。
王弟は棺の中のユレナへ視線を戻した。
「死因は?」
「井戸前での昏倒」
リシェが答える。
「埋葬可否はまだ判定前」
「そう」
王弟は一歩だけ近づき、しかし棺には触れない。
「兄上は知っている?」
「報告は上がっています」
「そう」
同じ返事を繰り返しているのに、そのたび意味が違う気がする。
この男は会話の中へ温度を置かない。
相手に埋めさせる余白だけを残す。
「井戸の近くで倒れた女、埋めるなと刻んだ棺、そして異邦人」
王弟は再び私を見た。
「最近の王都は、ずいぶん物語めいている」
「好きじゃないな」
私は言った。
「物語みたいな現実は」
「同感だ」
王弟はまた笑む。
「たいてい誰かが死ぬ」
そのとき、エナがわずかに私の袖へ触れた。
喋りすぎるな、という合図だとわかった。
私は口を閉じる。
王弟はそのやり取りも見ていたはずだが、何も言わなかった。
「棺に文字があったそうだね」
「はい」
リシェが答える。
「異邦人が読んだ」
「何と」
私はリシェを見た。彼女はほんの一瞬だけ迷ったが、結局答えた。
「“眠るな”“埋めるな”“指に戻せ”」
王弟の笑みは変わらなかった。
だが、目だけが少しだけ鋭くなる。
「指輪か」
彼は言った。
「第二王妃の系統遺物が昨日動いたと聞いている」
情報が早い。
しかも、その速さを隠さない。
この男は王都のどこに耳を持っているのだろうかと思った。
「ずいぶん詳しいな」
私は思わず言っていた。
エナの指先がまた袖へ触れる。遅い。
王弟は、ほんの少しだけ面白そうに目を細めた。
「王弟だからね」
「それで済むのか」
「たいていのことは」
嫌な笑みだった。
優雅さの形をした、露骨な自負。
王より健康で、王より人間らしい顔をしているぶんだけ、かえって危うい。
「埋葬部の判断を邪魔するつもりはない」
王弟は言った。
「ただ、兄上が聞けぬものを、誰が聞こうとしているのかは興味がある」
「それ、どういう」
「今はまだ言葉にしないでおこう」
王都の人間は皆そうだ。
言葉にしないまま、意味だけを押しつける。
王弟は最後にユレナの棺を見、私を見、そして穏やかな笑みを崩さず去っていった。
扉が閉まる。
室内の空気が、一拍遅れて緩む。
「……嫌な人だな」
私は率直に言った。
リシェが即答する。
「はい」
「身内評価が早い」
「埋葬部は忙しいので」
エナは扉を見つめたまま、低く言う。
「王弟は、いつも笑っています」
「そうだな」
「でも、供花を一度も持ったところを見たことがありません」
その言い方に、私は少しだけ背筋が寒くなった。
王都では、花は言葉の代わりだ。
供花を持たないというのは、単に葬送へ関わらないだけではないのかもしれない。
死に対して、自分の言葉を渡さない人間。
そう考えると、王弟の笑みはますます嫌なものに見えた。




