第53話 署名のない命令書
宮廷埋葬部で最初に渡された仕事は、ひどく地味で、だからこそ嫌なものだった。
署名のない命令書の束。
表題も宛名もない。
ただ日付と配給先、移送先、閉鎖区画、供花数変更、井戸観測担当変更、そういった指示だけが短く書かれている。
そしてすべてに共通しているのは、正式な署名がどこにもないことだった。
「何だこれ」
私は一枚をめくりながら言った。
「執行はされているのに」
「ええ」
ダフが答える。
「だから問題なのです」
「命令書なのに署名がない?」
「正確には、“署名欄が空いたまま流通している”」
私は紙を光へかざした。
たしかに下部に余白がある。
本来なら印か名が来る位置だ。
だが、そこだけ白い。白すぎる。
ただの未記入ではなく、何かを待っているみたいな白だった。
「誰が出したのかわからない命令が、王都を動かしてる?」
「はい」
リシェが会話へ加わる。
「最初は末端の書式ミスだと思われていました。ですが件数が増えた」
「内容は正しいのか」
「困ることに、半分は正しい」
「半分」
「残り半分は、早すぎるか、遅すぎるか、行き先が一つずれている」
ひどく聞き覚えがある。
現場に届くが、責任の所在だけが曖昧な指示。
それでも内容の一部が正しいから、誰も完全には止められない。
元の世界にもあった。
ただしこちらは、それが王都全体の死の処理に関わっている。
「読みますか」
リシェが言う。
「何を」
「署名のない部分を」
「また俺か」
「王命です」
便利な言葉だった。
私は紙の下部、白い余白を見た。
何も書いていない。
それなのに、じっと見ていると意味が浮く。
白さそのものが、記入前の空欄ではなく、削られた跡に近い。
「……読める」
私は言った。
「言って」
エナがすぐに促す。
私は一番上の一枚を読んだ。
「“王の耳を経ず、塔を経よ”」
部屋が静まる。
私は次の一枚をめくる。
「“名を伏せ、順のみ流せ”」
さらに一枚。
「“空きし欄へ、墓の判断を置け”」
ダフが低く息を呑んだ。
「やはり」
「やはり?」
私が問う。
「署名のない命令は、未決裁のまま流れているのではない。墓の側で埋められている」
私は紙束を見下ろした。
命令書の空欄。
そこへ墓の判断が入り込む。
つまり、王の耳を通らない命令が、塔や墓を経由して執行され始めている。
「ひび割れた勅令と同じだな」
私は言った。
「印はあっても、命は届かない。今度は署名欄そのものが空いて、そこへ墓が入ってる」
「ええ」
ネムが後ろから現れ、疲れた声で言う。
「王都の命令系統が、正式な頭脳ではなく、別の器官で代行されている」
「器官って」
「墓、塔、井戸、供花の偏り、そういったものです」
それはもう行政の話ではなかった。
国そのものが別の身体へ乗っ取られかけているみたいだった。
「誰かが偽造してる可能性は?」
私は問う。
「あります」
リシェが即答する。
「ただし、全件を人間が偽造するのは難しい。量が多すぎる」
「じゃあ半分は人、半分は」
「墓の側」
また半分。
この国は何でも半分で壊れていく。
私は紙束の余白へ指先を近づけた。
触れる前から、うっすら冷たい。
白い根に触れたときに似ている。
完全ではないが、同じ系統の気配だ。
「止められるか」
私は誰にともなく言った。
「今は無理です」
リシェが答える。
「なぜなら、署名のない命令でも現場は動くから」
「役所だな」
「ええ。しかも、内容の半分が正しい」
それが一番厄介だった。
全部が誤りなら止められる。
だが半分だけ正しい指示は、人を迷わせながら運用へ乗る。
王都は、その半分の正しさで延命しているのかもしれない。
エナが紙束を見ていた。
「師匠の記録に似ています」
「何が」
「“王都では、命令のほうが人より先に墓へ近づくことがある”と」
「本当に嫌な師匠だな」
「よく言われました」
埋葬部の室内は相変わらず静かだった。
だがその静けさの下で、署名のない命令書が王都を少しずつ動かしている。
誰の名前も持たず、誰の責任も引き受けず、それでも配給や移送や観測変更を起こしてしまう。
王が半分しか目を開かないあいだに、空欄へ墓が署名している。
私は紙を机へ置いた。
勅令が割れ、命令書は署名を失い、井戸の歌は王に届かず、墓が鐘を受け取る。
王都は今、誰の指示で動いているのか。
その問いの輪郭が、ようやく少しだけ見え始めていた。




